「すみません」の長さと重み

rosa412004-03-11

 写真家であり、映画監督でもある本橋成一さんと、友人Mが入院する病院にお見舞いに出かけた。本橋さんにとって、彼は写真学校でのかつての教え子の一人であり、本橋さんが経営していた木造アパートの住人の一人でもあった。 
 一方、25歳で上京した僕が、しばらくして暮らし始めたのが、Mが男三人で共同生活するアパートの一室だった。六畳と四畳半、三畳の3Kで三人暮らしだから、私は余剰住人としてそこに潜り込んだ格好だった。やがてMが引っ越して、彼の部屋で僕は暮らし始めた。
 その後、MはALS(筋萎縮性側索硬化症)という、原因も治療法も不明という難病にかかり、長い入院生活を余儀なくされている。この病気は感覚や脳が障害されることはないが、運動神経が障害されて、筋肉が萎縮していく進行性の神経難病だ。
 病室のMは小さくベッドに横たわっていた。僕は二回目の訪問だった。八、九年前に友人と訪ねて以来だ。以降、手紙などで彼との対話が続いていた。人工呼吸器が取り付けられた彼と話すことはできない。本橋さんは池澤夏樹さんと出かけた『イラクの小さな橋を渡って』(光文社刊ASIN4334973779)の取材時に撮影した、イラクの普通の人たちの暮らしを収めた13分間のビデオ『DO YOU BOMB THEM?(爆弾で彼らを殺しますか)』をお土産に持参していた。僕は今回の訪問を事前に彼に知らせる手紙に、拙著を同封していた。
 とりつくしまもなく、ベッドの脇にただ座っていた僕らを、看護婦さんの一言が救ってくれた。
「アイコンタクトでしゃべれますよ」
 不意をつかれた。前回来たとき、彼は棒を口にくわえて、ノートパソコンと連動したプラスチック製文字盤を棒で押さえることで、対話できていた。だが今のMにはそれも無理みたいだった。
「Mさん、お話する?」 
 看護婦さんはMにそう聞いた。そして瞬時に、
「大丈夫ですよ、彼もお話したいそうですから」
 そう言うと彼女は実に迅速に小型のパソコンモニターとテレビの電源を入れ、ベッドの設置されているカメラのレンズを調整してみせた。
 二人のやりとりを僕も確かに見ていたのだけれど、その一瞬でMがどんな答えを発したのか、少しも分からなかった。まるで外国に来て、意味不明な現地の人の会話を目の当たりにしているような疎外感をおぼえた。
「黒目を右に動かせば『だめ』、瞬きすれば『よい』という意思表示なんですよ」
 後で、そのクリッとした目が印象的な、小柄な20代の看護婦さんがそう教えてくれた。
 モニターが起動すると、しばらくして50音表が画面に現れ、「あかさたな」の先頭の文字列を人差し指型のカーソルが左から右へ走り出す。何回か無表情に左から右へ動いた後、そのカーソルが途中で止まり、今度はその文字列を直角に下りていく。さ行の上から三番目の文字「す」がマークされ、文字表上に現れた。
「すみません」
 それがMがつづった最初の言葉だった。その五文字を打つのに40秒ほどかかっていた。どうやらカメラレンズが彼の黒目に焦点を合わされていて、その黒目を彼が右にそらすことで、カーソルの動きを操作できるらしいことが分かった。その五文字をつづるのに、カーソルは無言で何度か先頭の行を通り過ぎたから、思い通りの場所でカーソルを止めるべく、黒目を右に動かすのも、かなり高い集中力が必要らしかった。
 それがわかったとき、最初につづられた「すみません」の長さと重さが僕の心にしみ入った。僕らが一秒で吐き出し、あるいは二秒でキーボードを叩いてつづる同じ言葉を、彼は40秒もかけて、しかも高い集中力と忍耐力でもって発していた。前回の訪問にもまして、自分の普段の言葉づかいのぞんざいさを痛感させられる出来事だった。細く尖った針で心臓をちくちくと突き刺されているような気分になった。
 ふと見ると、時折Mが観るのだろう、ベッドの足元の台に彼と向き合う格好で置かれた小型テレビとラジカセがあり、その黒いラジカセの上に、二通の封筒が置かれているのに気づいた。
「おひさしぶりです。わざわざこんな遠いところまできていただきありがとうございます。大変恐縮です・・・」
 白い封筒を開けると、そんな書き出しで手紙は始まっていた。僕らの訪問に合わせて、彼は集中力を高め、カーソルで我慢強く一字一字を拾い上げて、この文章をつづってくれ、きちんと二人分を印字して用意してくれたらしかった。切なさと嬉しさで涙腺が熱くなり、鼻の奥がツンとした。
「すみませんが、看護婦を呼んでください。会話はワープロを使ってします。お帰りになるときに記念写真を撮らせてください。お願いします。」
 全部で九行ほどの手紙はそう結ばれていた。コトバニ・ナラナイオモイガ・ソノギョウカンニ・アフレテイタ。

●ビデオ『DO YOU BOMB THEM?』に興味がおありの方は、本橋さんが代表をつとめるポレポレタイムス社のHPをご参照下さい http://www.ne.jp/asahi/polepole/times/polepole/index.html