動かないようで動いている

rosa412004-05-08

 丸い陶製の花器に活けていた、一輪の蔓(つる)バラがしぼみ始めた。そこで水切り(水中で茎を少し切り、花が水を吸い上げやすくすること)をして、今度は青いグラスに差しかえてみた。昨夜のことだ。
 今朝起きてみると、その青いグラスの内側に無数の気泡がついていた。しぼみかけた蔓バラがよみがえったわけじゃない。ないけれど、無数の水泡が生まれなければ、ただの枯れゆく花でしかなかった。気泡だって、枯れゆく花がなければ、コーラの炭酸と何の大差もない。
 枯れゆく花の気泡だからこそ、見る人によってキラキラとして、きれいだと思う。
    *        *
 昨日、電話があった。2月下旬に出版した拙著(上に表紙写真)に登場するS君(30歳)からだった。「横浜のホテルのフロントとして就職が決まりました」と彼はとても手短に言った。どうやら、ハローワークで探してきたらしい。3件面接したうち、早々にホテルから採用決定の連絡があったという。 
 約5年前、最初に取材した引きこもりの青年が彼だった。中国地方の国立大学の2年生のときに引きこもり、大学も中退した。
 最初に話を聞いたとき、彼は大学不登校や引きこもる若者たちを支援するNPO団体「ニュースタート事務局」のメンバーの一人として活動していた。 
 最初の取材で、彼はぼくの質問にとても理路整然と答えてくれた。それまでぼくが抱いていた、引きこもりのイメージはその欠けらもなくて、ぼくはとてもドギマギしたことを覚えている。
 昨年、拙著のために2日間四国のお遍路を一緒に歩きながら、彼と改めて話をした。その上で、自ら一歩を踏み出せない彼を、「彼はまだニュースタートに引きこもっている」と書いて、文章を結んだ。その本の、8人の登場人物の中では、一番付き合いが長かったからこそ、あえてそう書いた。
 S君もその団体の機関紙に「この本が出たことで、ぼくもいよいよ自分自身の結論を出さなくてはいけなくなりました」と書いていた。だが、ぼくが直接、彼に本の感想を聞くと、「(本の自分以外の登場人物も)だいたい、どんな話なのかは想像がつくので、全然読んでません」としか答えなかった。
 なぁんだ、一歩踏み出してみればチョロイもんだなって思うだろう?と、ぼくが聞くと、「そうですね」といい、受話器の向こうで彼は少し笑った。
 彼が活動していたNPO団体の代表は、彼の就職について面白い見方をしていた。「なんだかんだ言って、Sはやはり人間を見る仕事を選んだんだよ。ホテルのフロントなんて、まさに人間を見る仕事で、しかも人の役に立つ仕事なんだよな」と。
 人との距離感の取り方がうまくつかめなくて、長らく引きこもり、そのNPOを通じて、いろんな人と出会い、ともに活動をした彼が最後に出した結論が、それだった。
 もちろん、たかだか一人の男の就職話にすぎない。いつまで続くのかだって、わからない。それでもS君にとっては大きな一歩だ。
 じゃあ、とぼくは思う。今日一日は自分にとってどんな日だったのか。昨日と何が、どう違ったのか。あるいは何が、どう違わなかったのか。それは成長なのか退化なのかと。
 だって、すべては動かないようで動いていて、S君もぼくも同じ地球の上にいて、おそらくは同じ速度で死に向かっている。
 枯れかけた蔓バラが生み出す気泡と、S君が生み出す気泡と、ぼくが生み出す気泡は、どっちが多いのか。
ニュースタート事務局
(http://www.new-start-jp.org/)