FIWC関東委員会主催シンポジウム「ハンセン病がアジアをつなぐ」〜一粒の種が伸ばした韓国と中国への地下茎

rosa412004-05-09

 今日の午後2時から、東京都武蔵野市で、上記のシンポジウムが開かれた。そこでは、人間嫌いだった一人の男子学生が今春、中国のハンセン病快復者の村へワークキャンプに出かけ、一人の愛くるしい笑顔のハンセン病快復者と出会うことで、「なんか、とても元気になれました」と話した。
 中国の別の村で昨年ワークキャンプを体験した女子学生は、五本の指がない女性のハンセン病快復者の両手を、思い切って自分の両手で握りしめたとき、「相手が嬉しそうに大笑いしてくれて、すごく救われたような気持ちになりました、嬉しかった」と語った。
そんな光景を見ながら、ぼくは一人、タイム・スリップしていった。20歳の夏、ぼくは初めてFIWC関西委員会主催のワークキャンプに参加した。人生初の海外旅行だった。行き先は韓国の永楽農園(ヨンラクノンウォン)というハンセン病快復者が暮らす村で、目的はコンクリートで道路を舗装。下関・釜山間を就航するフェリー代金と、10日間のキャンプ生活費こみで確か6万円だったと思う。
 結局、それがキッカケで、ぼくは4年生になる前に大学を1年間休学して、韓国ソウル市にある大学に語学留学する。キャンパーの韓国留学は初めてだった。1985年のことだ。今思うと、それはぼくの人生がヤクザな、自営業者への道へと転がりおちていく岐路になった(^@^)。
 実はその留学は半分は一人の女の子目当てで、結局はその彼女にフラれてしまい、ぼくはその腹いせに、既存のキャンプとは別に、新たなキャンプを作ろうと決意する。ちょうど、日本側からのキャンプ参加者が増えて、新キャンプの必要性が取りざたされている時期でもあった。
 ソウル市内の日本語学科がある大学を回り、ぼくは一人で下手な韓国語で書いたキャンパー勧誘のチラシを渡して歩いた。韓国外国語大学の日本語学科の学生ら数人がそれに興味を示してくれ、彼らと第一回のワークキャンプが実現した。
 それを契機に、外大に日本人とハンセン病快復者の村でワークキャンプをするサークル「ハナ会」が生まれた。翌86年のことだ。「ハナ」とは韓国語で「最初」「ひとつ」という意味だ。その年を境に、ぼくは卒論やら就職活動、単身上京とあわただしい生活で、一度もキャンプには参加していない。
 だが外大の「ハナ会」が18年後の今も存続していて、韓国だけでなく、中国のハンセン病快復者の村でもワークキャンプを行っていることは、ぼくも会報紙などで知っていた。
 だが今日、実際にその活動を支えている学生たちの顔を見て、彼らの熱い想いを耳にして、月並みだけれど、物事を継続することのすごさを痛感させられた。
 ぼくが失恋の腹いせにまいた一粒の種を、韓国ばかりか中国にまで広がる地下茎へと育ててくれた人たちの情熱と、愛すべきドアホウさ加減が、とても嬉しかった。
 昨年、一人の日本人学生は、大学を休学して、中国のハンセン病快復者の村で一年間生活しながら、中国国内のハンセン病快復者の村々をネットワークしてきた。その活動をさらに今年もう一年続けるという。アホだ、しかも正真正銘のドアホウである。
 そんな情熱やドアホウさはどれも無形で、よるべなきものだ。けれど、だからこそ、その場所とメンバーを変えながらも、脈々とその地下茎を国境をこえて広げてもいける。
 グルメな観光旅行にはない、人との濃厚な出会いやコミュニケーションが、数々のカルチャーショックや、それを通して見えてくる日本での生活への違和感がある。
 そのドアホウさがつむいだ絆は、あるいは人と人の思い出や信頼や友情は、たとえば政治家がどんなに失言や靖国参拝をくり返しても、そう簡単には消えない。いや、消すことができない。
 一連のワークキャンプに興味がある方は、この夏にも予定されていますので、以下をクリックしてみて下さい。もう小利口に生きるのに疲れた、一度ドアホウなことがしてみたい、という方もどうぞ。
モグネットURL:http://www.mognet.org
オマケ)
 友人のサイトで見つけた「草木便り」というサイト。http://shinyama.com/index.html
 いろいろな花々の画像と、身辺雑記や童謡、詩で構成されています。気に入ったので左のアンテナに追加しました。仕事の合間、お花好きな人の気分転換には最適。