森源太、新宿パワーステーション〜路上で生まれた唄声

rosa412004-05-27

 耳たぶや鼻、喉ぼとけ、足なら踝(くるぶし)の上あたりの一番皮膚の薄い部分とか。人の身体には、どうにも無防備で、弱っちい部分がいくつかある。いずれも筋トレや体操では鍛えようがない、という意味でだ。
 森源太の唄は、そういう部分から這い入ってきて、心の奥の、一番ヤワな部分をチクチクと針でつっついてくる。もちろん、ぼくが実年齢の割には、感受性が多感すぎるせいもあるかもしんない。いや、情けないほどにガキっぽいという意味でだ。
 昨夜、新宿・厚生年金会館前のライブハウス「パワーステーション」で、森君の唄を聴いた。高校時代の友人で、今春から異動で東京勤務となったオジサン二人で聴きに行った。今回も、他の聴衆は20代ばっかで、まっ、演奏中も暗いから、オジサンたちは目立たないんだけど。
 甲子園球児みたいな短髪、よれ気味の半そでTシャツ、膝下の短パン姿で、なぜか目だけは女優の仲間由紀恵似の26歳。歌うときは目を閉じて、何かを念じるかのように、声をふりしぼる。若くして他界した知人や、新生活を始めたばかりの人たちへと、いちいち前置きして生まれてくる唄。
 それらは一人よがりではなく、その純度の高さゆえか、たっぷりとした隙間や余白があって、聴く者がそれぞれの居場所を見つけやすいせいかもしれない。
 友人が一番気に入った、この日最後に唄った『がんばれ』という曲がある。歌詞だけ書くと、オジサンとしては、ひたすら、こっ恥ずかしい。
「がんばれ がんばれ がんばれ
 涙くらい見せてもいいから
 がんばれ がんばれ がんばれ
 恥じることなどひとつもないから

 がんばれ がんばれ がんばれ
 君の姿が誰かの優しさに変わる
 がんばれ がんばれ がんばれ
 君の現在には必ず意味がある     」

 この曲だけ、ギターとボーカル用の二本のマイクを外し、彼は生演奏で聴かせた。一人つぶやくような「がんばれ」、誰かをさとすような「がんばれ」、自ら念押しするような「がんばれ」、耐え切れずにうめくような「がんばれ」、誰かをなじるような「がんばれ」。強弱をつけながら生まれる、さまざまな「がんばれ」が、聴く側の心にゆっくりと、しかし確実に踏み込んでくる。
 ギターと最低限の荷物だけを担いで、一昨年、彼はママチャリで日本一周した。いろんな人の好意や蔑視を受けながら、路上で唄い、それではお金にならないから、空腹を満たすために、飲み屋街で酔っ払い相手のカラオケ演奏や、リクエストに答えながらも唄った。何度も喉を潰し、潰す度に歌声は伸びるようになり、広がりをつかんでいったと彼はいう。それは路上で生きていくために体得した唄声にちがいない。
 ボクシングの元東洋太平洋(OPBF)スーパーバンタム級チャンピオンで世界タイトルに3度挑戦した石井広三や、21歳で単身渡米し、現在NBA入りを目指して奮闘中のバスケットボール選手の森下雄一郎ら、ほぼ同じ歳の友人たちに贈った『自分』という曲がある。ぼくが一番好きな唄だ。

「凍える冬は誰かに預け
 我が身可愛さ たらたら垂れる
 どっぷり浸かった ぬるま湯の果て 
 心をも沈めきた人

 春の息吹 土の上に舞い降りる その唄を聴け
 海の向こう 男の背中にせめて追い風を吹かせ

 泥の中に咲く蓮の華のように 傷つけど吠えかかる
 野良犬のように 
 孤独と向かい合う旅人のように 自分の中に在る 
 自分を生きたい

 日照りの夏は素知らぬ顔で 
 吐いた言葉も ゆらゆら揺れる
 勝ちたる者には世辞など並べ 
 敗れし者には目もくれぬ人

 秋の樹々 散り去る間際 尽くした彩りの唄を聴け
 リングに立つ男の拳をせめて腹の底に刻め

 泥の中に咲く蓮の華のように 傷つけど吠えかかる
 野良犬のように 
 孤独と向かい合う旅人のように 自分の中に在る
 自分を生きたい               
                        」
●森源太web
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