佐野眞一著『東電OL殺人事件』(新潮文庫)〜書き手の獰猛な情熱に引きずり回される快感

東電OL殺人事件
 荒れ狂う闘牛の角に、偶然結ばれた荒縄を持っていたせいで、闘牛場を散々引きずり回されたような読後感だ。
 この場合、闘牛の角は書き手である佐野さんの獰猛な情熱であり、その情熱の対象は殺人事件に巻き込まれた、慶応大学卒のエリート企業の女性社員と、一回5000円というチープな渋谷の売春婦という、二つの顔をもつ女性だ。
 編集者Y氏から「面白いから読んでみて下さい」と言われて、ページを開いたのだけれど、案の定、冒頭からぐいぐい引き込まれた。最初こそ、佐野さんにしてはあまりに情緒的すぎる各章末に戸惑いながらも、実にあっさりとその世界に溺れた。
 97年に渋谷で起きた殺人事件と、その「犯人」として逮捕、拘束されたネパール人の裁判をめぐって、ストーリーは展開する。当時、事件そのものはマスコミが発情したように報道していたので知ってはいたが、なぜ佐野さんが事件を追っかけているのかまで知ろうとは思わなかった。
 その事件を佐野さんが調べるほど、東電OLを取り巻く関係者、たとえば逮捕されたネパール人や、そのネパール人仲間たちに仕事まで与えて取り込もうとした警察、公判中に居眠りする裁判長など、様々な堕落ぶりが明らかになっていく。
 緻密で、周到で、執拗な佐野さんの取材にいちいち感嘆しながらも、ぼくはとても幸福だった。大なり小なり、読者はその本の世界に身も心もたぶらかされたい、と思ってそれを開くのだから、引きずり回されるなんて至福な経験にちがいない。
 しかし職業意識というのは悲しい性(さが)のようなもので、ぼくは一気に読み進みながらも、ついつい所々でお勉強してしまい、純粋な一読者になれない。
 たとえば、ぼくは文庫本のあとがきの、以下のフレーズを読みながら、思わず両腕を前で組み、うんうんと一人うなづいてしまう。

私にとって殺された渡辺泰子は、謎という水を満々とたたえて決壊寸前にある巨大なダムのような存在だった。それを決壊させずに、謎は謎として読者の前にそのまま運ぶことはできないか。私はそのことに、もっといってしまえば、そのことだけに腐心した。
 事実という升のなかに謎を汲みあげる。事実だけで謎の吃水線を示しだす。もしもそれができたなら、ややもすると事実だけにとらわれて痩せていくノンフィクションの地平は大きく広がる。私にはそんな不遜といってもいい思いもあった。

売文稼業のぼくにとって、人間への強い好奇心が唯一無二のエンジンだ。「ああ、この人を書きたい」という強い想いに時折とらわれてしまう。それは同時に、「この人の核を鷲づかみしたい」というかなり不遜な情熱でもある。なぜなら、それは両刃の剣だからだ。
 理性的であると同時に、矛盾にみちた動物である人間を、書き手の理路整然とした構図の中にはめ込むことで、実物とかけ離れて平板で、面白みのない存在として貶(おとし)めてしまう危険と、いつも隣り合わせだから。
 佐野さんの野心どおり、時に事実に執着しすぎるあまり、やせ細っていくノンフィクションの地平を、この作品は大きく広げたと思う。だが終盤の、殺された渡辺泰子の精神の闇に光をあてようとする、精神科医斉藤学氏との対話の是非は分かれるだろう。ぼくは・・・なくても良かったかもしれないと思う。