松岡正剛「千夜千冊」〜非自己を許容できない自己って何?

rosa412004-06-04

免疫の意味論
偶然のつながりを実感することが時々ある。暮らしのふとした瞬間に、神様の示唆みたいな感じをうけとる瞬間といってもいい。
 今日の夕食後、東京新聞で、長崎県佐世保市の小学生による殺傷事件についての特集記事を読み、仕事部屋に来てパソコンを立ち上げ、このページから、松岡さんのアンテナをクリックしたら、今日は多田富雄著『免疫の意味論』(青土社ASIN:4791752430)が取り上げられていた。
 夕食後の満腹感をもてあましながら、それをつらつらと読んでいて、その全然つながりのない二つの事柄に、深い関連性を見つけてしまった。だって松岡さんのwebは、毎日違う本を取り上げてるんだから。
 たとえば、こんな一節があった。

免疫系が何をしているかといえば、抗体抗原反応をおこしている。抗原は外部からやってくる病原菌やウィルスなどである。これが非自己にあたる。高分子のタンパク質や多糖類であることが多い。
 われわれは、これに抵抗するためのしくみの担い手として抗体をつくる。これが自己である。非自己がなければ、自己もつくれない。

さらに、こんな文章も後から出てくる。

免疫というシステムは、先見性のない細胞群をまずつくりだし、その一揃いを温存することによって、逆に、未知のいかなるものが入ってきても対処しうる広い反応性を、すなわち先見性をつくりだしている。

 免疫系って実に人間臭いぞ、これは。非自己を他者に置きかえれば、他者との葛藤や感情的な対立に対して、社会全体の免疫力が確かに落ちているなぁとぼくは、これを読んで思った。上の文章にならえば、非自己がなければ自己さえないのにも関わらずだ。あるいは、非自己を全否定するということは、自己否定にもつながりかねないのにだ。
 他者との違いを尊重できずに、力でねじ伏せようとしたり、徹底して排除したり、存在そのものを消そうとしたり、近頃そんなんばっかだ。
 全肯定か全否定、これは殺した小学生と殺された小学生だけの話じゃない。
「米国の側につくのか、テロリストの側につくのか」
「好きか嫌いか」
「企業防衛か顧客志向か」
「勝ち組か負け組か」
 どうも、私たちの社会が、昔から良くも悪くも抱えていた曖昧さや中庸さがどんどん失われて、そんなオール・オア・ナッシングな枠組みだけがどんどん増殖していってる。 
 それらを勧善懲悪か、さもなくば二項対立的な構図で殊更はやし立てて、小銭稼ぎにいそがしい業界もある。 
 もちろん、ぼくだって他人事じゃない。非自己=他者に対するストライクゾーンは、10年前とくらべたら、確かにずいぶん狭まっている。なんでだろう?心の余裕がないからか、金銭的な余裕のなさゆえか?(でもそれは昔からだし^^;)
 でも、非自己がなければ自己だって作れないのに、非自己を許容できない自己って何?