『庭で泣く』(第一話)京都・大徳寺竜源院「竜吟庭」〜「ただただ、己が恥ずかしい」

rosa412004-07-02

 さっき、BSハイビジョンで、明治を代表する作庭家・七代目小川治兵衛(じへい)の生き様と、その庭を紹介する番組を観た。琵琶湖を模した池を配した京都東山の洛翠(らくすい)のミニマリズムなど、山縣有朋ら明治のリーダーたちのスポンサードを受けながら、時代をこえて残る仕事をした小川の天才を堪能させる番組だった。
 それに刺激されて、知識足らずの拙文を、どうしても書き出してみたくなった。
     * *           * *
京都取材が舞い込んだ。去年の夏のことだ。ふいに大徳寺に行きたいと僕は思った。その境内にある四つの庭をめぐりたいと。それには前段がある。その前年の暮れ、僕は一人で大阪にある実家への帰省を兼ねて、京都・東山を一日そぞろ歩いた。そのとき立ち寄った東山の青蓮院が、あまりに精緻に作りこまれた庭で、とても驚かされたからだ。日差しの長さとそれによってできる影と日向の具合いまできちんと計算されていて、境内のここかしこに配され、ちょうど赤い実をつけていた南天が、きっぱりとした冬の青空の下、どれも見事に輝いていた。そのとき、折を見つけて京都の庭を歩いてみたい、僕はそう決めた。
 今から思えば、大徳寺での四時間余りの散策は、ひとつの交響曲にでも圧倒されたような時間だった。まず最初の寺、国宝大仙院に入った。その建築は室町時代のもので、わが国最古の方丈(仏様をお禮りする本堂)建築といわれる。その古びた建物をめぐりながら、ひとつの掛け軸にふいに出くわした。

「心は行動となり、
 行動は習癖を生む
 習癖は品性を作り、
 品性は運命を決する
        大仙院尾関宗国  」

 まず、これに僕は度肝を抜かれた。まるでピンセットで標本にされた蝉みたいに、この掛け軸の前で動けなくなってしまった。この四行に、ちんたらと四○年近く生きてきた自分を、すべて見透かされた気持ちになった。
「ぎょえっ!恐ろっしい〜」
 そんな思いを、周囲に他の入園者がいたこともあるが、僕は言葉にすることもできなかった。
 大仙院には枯山水(水を用いず、白砂や石、植栽で山や水を表現する庭園形式)がいくつかある。だが、かっこいいなぁとは思ったけれど、それほど心を揺さぶられることはなかった。いや、それ以上にあの掛け軸の、あの四行があのときの僕にとっては強烈だった。しかし、それはあくまでも序章だった。

 次に高桐院に向かった。ここは表門から寺への直角に曲がるアプローチが素晴らしかった。幅1m30㎝ほどの路の両側に青竹の手すりが配され、その両側には優雅な佇まいの細身の竹や、黄緑色の芝がまさに滴るように日差しに映えていた。夏の獰猛な日差しのせいもあったのだろうが、その芝は見たこともないような美しい黄緑色だった。
 ここで印象的だったのは松向軒という茶室。黄土色と金色の中間のような侘びた壁に囲まれた、広さ四畳ほどの暗い空間だ。わざわざ広々した枯山水もあるのに、こんな狭っちい場所に男の客人と招きいれたら、さぞや息苦しいだろうと思う半面、この空間で向かい合えば、どんな権力者でも裸にひん剥かれるなとも思った。
 千利休豊臣秀吉の有名なエピソードを思い出したからだ。利休の茶室の周りに咲き誇る朝顔を、あるとき、秀吉が見物に訪れた。すると茶室の周りの朝顔はすべて刈り取られて跡形も見えない。憤慨しながら秀吉が暗い茶室に入ると、どこからか一条の光が差し込んでいて、葉先に水滴をきらきら輝かせた一輪の朝顔が生けられていたという。
それが利休の美意識であり、ここからは僕の想像だけれど、秀吉はどんな権力をもってしても敵わない、利休のダンディズムに圧倒されたのだと思う。百姓から身を起こして今太閤にまで昇りつめ、豪華絢爛な桃山文化を築き上げた秀吉は、このときから利休を恐れるようになった。秀吉が築いた文化とは対極の美意識だったからだ。そのトラウマのような恐怖心が、尽きることのない嫉妬が、最後には利休を切腹にまで追い込んだのだと、史実とはかかわりなく、僕は勝手にそう想像する。
 光が入り込まない茶室の暗がりは、外の世界と一線を画し、身分制度を取っ払い、人と人が裸で向き合うためのシェルターだったのかもしれない。松向軒でしばらく呆然としながら、僕はそんなことを考えた。
 わずか四行の掛け軸に度肝をぬかれ、滴る黄緑色の芝に心を奪われ、狭い茶室の暗がりへの恐さに思いをはせた時点で、ぼくの心はすでに十二分に揉みしだかれて、かなり脆くなっていたんだと今になってそう思う。あとは崩れるだけだった。        
 
 大徳寺で最も古い寺、龍源院にやってきた。ここには北庭、南庭、東の壺石庭、開祖堂前庭、阿吽(あうん)の石庭などがある。しかし僕は、北庭の青々とした杉苔に覆われた竜吟庭が一番だと思う。
 中央に高く屹立する一番背の高い岩が須弥山を模したといわれる。須弥山とは架空のもので、古代インドの宇宙観に基づき、仏教で世界の中心とされた山だ。仏教では、世界は九つの山と八つの海からできていて、須弥山はその中でも最も高く、鳥さえ飛び交うことのできない孤高の山だ。それは真実の自己本来の姿であり、誰もが備えもっている超絶対的な人格、悟りの境地を表現しているといわれる。
 そのすぐ手前に置かれている円い板石が遥拝石。これは文字通り、背の高い須弥山をはるかに拝む平べったい石であり、真実の自己本来の姿をめざして少しでも近づこうとする信心を表しているという。(下記、大徳寺URLをクリックすると、竜吟庭を見ることができる)
 その竜吟庭を前に、僕はちょうど須弥山を模した石と遥拝石と正対する位置の廊下に座り、試しに座禅を組んでみた。青い杉苔の先には白壁があり、その上には夏の青い空と、そこをゆっくりと流れる白い雲があった。
 頭と心を空っぽにして、座禅を組んだまま、その光景をまんじりともせず見つめていると、ふいに僕はトリップしてしまった。現在の時間の流れを象徴する青空と白い雲の移ろいと、竜吟庭という枯山水の持つ仏教由来の世界観が僕の中でシンクロした。まるで過去と現在の二つの時空間を目の当たりにしているような気分になった。
 真実の自己本来の姿を体現した須弥山と、それを目指す遥拝石、そして自分の場所が僕の中でひとつに結ばれ、何かしら普遍的なものに触れた気がした。彼岸をめざすという意味で考えれば、どう考えても努力不足の自分は、その遥拝石より遥か後方で、今座っている位置よりもっとずっと後ろだろうな、そう思うと、途端に己(おのれ)が恥ずかしくなった。
 四○年近く、どれほど具体的な目標を自分に課し、それに向かってどんな努力をしてきたのかと振り返れば、ただただ、己の怠惰さ未熟さが堪らなくなった。そう思った瞬間、泣けてきた。おいおいと声を出して泣いたわけではない。ただ涙腺が熱くなるのを、どうしようもなかった。そんなオッサンなどお構いなしに、苔むした枯山水は泰然と、夏空は獰猛に青く、そこを白雲はゆったりと右から左へうつろっていった。                      
追記)
結局、取材時間が迫り、残りの瑞峯院(ずいほういん)を観ることなく、大徳寺を後にした。残念。
大徳寺庭園写真
http://www.ifnet.or.jp/~chisao/muromati.htm#daisen
松岡正剛「千夜千冊」:小川冶兵衛の作庭を論じた尼崎博正著『植冶の庭』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0556.html