テオ・アンゲロプロス『狩人』〜隠喩的シーンの多さに居眠り

 マイッた。上映途中に、居眠りしちまった(^^;)。多少疲れていたせいもあるが、映画に食傷したせいも半分ある。
 1976年、狩猟に出た6人の男たちは、雪山で一人の死体と遭遇する。30年近く前の内戦時代のゲリラ兵の死体だった−その導入から、その6人の内戦以降の軌跡が、それぞれに語られていく。ホテルの6つの部屋のドアを映しながら、内戦時代への反感や後悔を語らせたり、死体を中央にして警察官の取調べに応じる形で、6人がそれぞれの人生を語っていく場面も演劇的だ。
 でも観ながら、僕はちょっと疲れてきてしまった。たとえば、「陛下がいらっしゃった」と言う妻(6人の男の一人の)は、ダンスパーティの会場で、衆目の中、姿形なき相手とダンスを始め、ついには性交にまで至る。それを一人で演じているのだが、そういう隠喩的な仕草に、僕はシラけてしまった。もういいやって感じ。
 第二次大戦後、ギリシャではマーシャルプランによる食料供給ををありがたがる体制派と、外部国家にこびることなく、王政復古による国家再建を求める反体制派があったことが、映画では語られる。姿なき陛下と妻のダンスは、おそらく、盲目的な王政復古願望が、結局はないものねだりにすぎなかったという、失望の表現なのだろう。でも、ちょっとついていけない。観念的すぎて、鼻白んでしまう。
 解説によると、初日のみ上映の『1936年の日々』(仕事で観られず)、昨日観た『旅芸人の記録』、そして『狩人』が、現代ギリシャ三部作らしい。「旅芸人」以上にそういう場面が多かった。
 いくら美味しいフォアグラでも、一度に三皿ぐらい目の前に並べられたら、誰だってゲンナリするだろう。まっ、これも映画祭ゆえの貴重な体験ということで。