テオ・アンゲロプロス『こうのとり、たちずさんで』

rosa412004-07-14

 生まれて初めて観たアンゲロプロスの映画が、マルチェロ・マストロヤンニ主演の『こうのとり、たちずさんで』だった。91年制作だから、おそらく11、12年前のことで、当時のガールフレンドと一緒に出かけた。でも映画終了後、自分一人が堪能していて、彼女はさっぱりだったみたいで、たいへん申し訳なかった(^^;)。この一件以来、女の子と行く映画には、かなり慎重になったりした。
 それをきっかけに、『ユリシーズの瞳』『蜂の旅人』『永遠と一日』を映画館で、『霧の中の風景』をビデオで観た。だがどれも『こうのとり』以上の興奮はなかった。
 だから今回も久しぶりの2回目鑑賞で、どう感じるのか自分でも楽しみにしていた。だが結果から書くと、ラストの場面とマストロヤンニを除いては、ずいぶん期待外れだった。その最大の理由は、今回の映画祭ですでに3本も観ていたことが大きい。現代ギリシャ史三部作の重厚さや、凝りにこった構成をへてくると、『こうのとり』は軽くてスカスカで、粗雑な作品に思えてしまう。国境や難民というテーマだけは思わせぶりなのだけれど。
 でも、これは映画祭体験の面白さだとも思う。短期間に複数の作品を観ることで、作品同士を相対化してしまい、映画に対する視力が瞬間的に増す感じ、とでも言おうか。
 テレビ番組の取材で、河と湖の中に4つの国境が接するギリシャの寒村を訪れたテレビのプロデューサー(コイツがダサくて下手くそで、映画をぶち壊している)は、入国許可を待つ難民の中に、昔失踪した大物政治家らしき男を見つける。プロデューサーは、番組を盛り上げるために、政治家の元夫人(ジャンヌ・モローが好演)などをその男に会わせたりするのだが・・・。
 ある日、ふいに人生のすべてに失望し、難民にまで身を落としたダッサ〜イ初老の男を、マストロヤンニが好演している。『ポーラX』以降のカトリーヌ・ドヌーブとか、美男美女で老境にさしかかって、ますます苦味と輝きを増す俳優ってイイ。
 それでも、やっぱり最後の場面なんだよな、この映画は。それぞれに与えられた人生をまっとうするしかない人間の寄る辺なさを、こんな切なくて抒情的な映像詩にしてみせた監督を、僕は知らない。今回の映画祭のポスターにも使われているのも、そのせいだろう。全体としては期待外れだったけど、このラストシーンは、今までのどの作品の、どの場面より、心の底からしみじみ好きだなぁと思う。その気持ちは、この約13年間、何の変化もなかったことになる。
 ぜんぜん話は変わるが、以前、ジャズ歌手綾戸智絵さんを取材したとき、僕は彼女にこう尋ねた。
「綾戸さんが言葉を大切に歌われているのがわかるから、なおさら歌詞が英語より日本語だったらなぁと思ってしまうんですが・・・」
 すると彼女は、それは良く言えば向上心が強いけど、悪く言うと欲張りで、分析聴きになりやすい。たとえば、懐石料理を食べに行っても、翌朝覚えている料理なんて一、二品程度でしょうと言った上で、こうしめくくった。
「だから私の唄の中でひとつ、ふたつ心に残る歌詞があれば、それぞれのお客さんが、それぞれ引っかかった言葉を膨らませて帰ってもらえれば、それでじゅうぶんだと思うんです。美味しく食べていただいて、なんぼですから」
 ギャフン。そのとき、僕は心の中でそうつぶやいていた。
 13年ぶりに観た映画でも、相変わらず大好きだなぁと思う場面があったこと。その一場面をこそ、綾戸さん流にいえば、自分なりに膨らませて、これからも大切にしよう。それが確認できた13年間という時間もふくめた意味で、90点。