演劇実験室◎万有引力版『毛皮のマリー』(亀戸カメリアホール)

rosa412004-07-24

 撃ち落とすべき標的を失ったピストルは、ただの鉄のかたまりにすぎない。残された手段は、まるで別の物へ加工するか、あるいは昔語りの道具として、丹念に磨き上げてコレクションにしてしまうか。それ以外の用途をぼくは思いつかない。
 今回、故・寺山修司が率いた演劇実験室◎天井桟敷の名作『毛皮のマリー』を初めて観た。お、おっ遅い!(^^;)オカマの母親マリーと、"彼女”に男の子として育てられた女の子の絆、その従属と葛藤を軸に舞台は展開する。ざっくりといえば、挫折する家出の物語だ。
 かなり不正確だが、記憶のままに、今日の台詞から選んでみると、

教室の机の上に地平線を描いたら、「70㎝ぽっちの地平線なんてない」といわれ、その線をどんどん伸ばしていったら教室から廊下に出て、廊下を曲がると、校庭にまで伸びていったんだ。

 といったフレーズに、寺山らしい縦横無尽な言語世界の残り香をかぐことができる。
 舞台構成では、会場左右両側の入り口から伸びる広めの通路に、もうひとつの舞台装置を置き、時折、舞台と通路の二箇所で展開させる点が面白かった。かつて同僚であった食堂の女店員に、マリーが男として陵辱される場面を、マリー自身が回想として通路側で語ると、その場面が舞台で擬態として再現されるなど、会場の設計をうまく活用した観せ方だ。女装する男、男装する女、両性具有っぽい俳優たちはそれぞれ上手いし、洗練されていて、万有らしい疾走感の中で物語は進む。歌舞伎にも似た様式美として、その完成度は高い。
 しかし、とぼくは思う。この作品が本来抱えていた禍々しさを、まるで感じないのだ。その欠落感は最後まで満たされなかった。去年・阿佐ヶ谷で、万有引力の別の芝居を観たときと同じだった。
毛皮のマリー』の初演は1969年。故・寺山がまだ存命だった頃のドイツ・エクスプリメンタ・3演劇祭だ。東京五輪を終え、高度経済成長を信じて疑わなかった日本なら、この作品は禍々しい異端劇として成立しえただろう。日々こぎれいに整っていくオモテ社会の建設に、世の中ぜんぶが躍起だったからだ。そんな社会の嘘臭さを標的に、寺山のデカダンで挑発的な演劇は、立派なピストルとして機能したにちがいない。
 だが今は違う。オカマは堂々の市民権を得て、テレビのゴールデン番組に司会や人気者として登場している。政治家の嘘も、銀行の嘘も、警察の嘘も、マスメディアの嘘も巷にはあふれていて、子供が親を殺そうが、親が子供を殺そうが、日によってはニュースにさえならない。オモテ社会はオモテたる資格をとうに失い、実にメリハリなくのっぺりとしていて、喧騒(ノイズ)のような情報だけが日々にぎやかだ。
 そうなると、いくら舞台で道徳や常識の虚偽を叫んでも、それらの言葉は撃つべき標的を失っているのだから、ただ失速して間が抜けたように地面に転がるしかない。なぜ今、『毛皮のマリー』なのかがわからない。撃ち落すべき標的を失ったピストルは、ただの鉄のかたまりにすぎない。もちろん、それは喧騒のような情報だけが日々にぎやかな、私の平べったい日常ともつながっているのだけれど。

万有引力webサイト:http://www.banyu-inryoku.com/
(明日25日の最終公演は午後3時から 電話070-6555-7931)