チェーホフ劇「三人姉妹」をビデオ鑑賞〜しゃべればしゃべるほど希薄になる言葉

rosa412004-09-25

 先々週、NHK-BSで深夜放送されたチェーホフの『三人姉妹』をようやく観た。原田美枝子や荻野目慶子といったキャスティングに惹かれたからだ。
 ソビエト時代の没落貴族の三人姉妹が、両親の死後、現実にまみれながら、不本意な教師生活や結婚生活などに疲れ、失望していく物語だ。彼女たちが善良な人物として設定されればされるほど、それは哀切な舞台になってしまう。そういう戯曲自体のレトリックがまた上手い。
 全体的には芝居が新劇臭くて、少々興ざめした。俳優陣では、その姉妹の兄と結婚し、いつしか一家を取り仕切るようになる、兄嫁役
を演じていた荻野目慶子がずば抜けていた。
 もちろん、その灰汁(あく)の強い役柄のせいもあるだろう。だが周囲を鼻白ませるほどエゴイスティックで、かつ狂気と醜悪さの両方を併せ持つ人物像を、憎らしいほど巧みに造形していた。
 ぼくはこの「三人姉妹」という話が、チェーホフの戯曲の中でも一番好きだ。芝居でも何度も観ているが、いっこうに見飽きない。このテキストが持つ、小さく負け続けていく現実と取っ組み合う人間のあり方が、切なくていとおしい。時代をへても朽ちることのない、生きてあることの悲しみがそこにある、そう漠然と思っていた。
 先日、ぼくのその漠然とした思いを、きちんと言葉にしてくれた文章に出会った。ある新聞の夕刊で、演出家の鈴木忠志さんが書いていた「チェーホフの現代性-その言葉について」だ。
 たとえば、単刀直入に鈴木さんは言う。チェーホフの戯曲の登場人物はまったく(イプセンとは)正反対で、言葉は人間の関係や存在を不明瞭にするものとして働く、と。
チェーホフの戯曲の主人公たちは喋り話すほどに、周囲の人たちとの関係が希薄になっていくという特徴をもっている。本人の欲望や事実関係があいまいに見えていくのである。なんのためにこの人は喋り話すのか、それが共有されなくなっていく」
 現実の前でこなごなに砕けてしまう理想や憧れ、失望を正当化しようとすればするほど空々しく、かつ痛々しく響く言葉。
 鈴木さんはそれを「近代の人間は言葉によってそのような存在になったというのが、チェーホフの戯曲に表れている人間観である」ともいう。
 それは同級生の子供の命を奪う小学生や、政治家や、プロ野球球団のオーナーや社長たちの言葉にも、そっくりそのまま当てはまる。チェーホフ劇の悲しみは、そこで放たれる言葉の空しさにこそ支えられていた。