秋雨と宇野千代と勇気

rosa412004-10-03

 原稿書きがひと段落して、夕方に筋トレを一時間やってから、風呂につかってフンニャリする。風呂から上がると、筋トレのせいで、いつものように甘いものが欲しくなり、ヨーグルトにイチゴジャムをたっぷり入れてかきこむ。もう窓の向こうは真っ暗で、なお雨が小ぶりな音を立てて降りつづいている。
 こんなときには無性に言葉が欲しくなる。ふたたび、青山二郎全文集上巻(ASIN:4480087419)を読む。「最も善くできた田舎者」の章に、作家の故・宇野千代さんと青山さんの文通書簡が、おそらく青山さんの独断で載っていて、以下の文章が眼にとまった。
「青山さん。昨夜は久々でお目に掛って色々と考えました。実を言ふと、私はこの頃とても騒々しい生活をしていますので、われ乍ら呆れるくらい、考へることは一とき伸しと言う気持でいますのです。あなたには叱られるかも知れませんが時々お目に掛って、かう言う私の『こはれ掛った写真機』を修繕する必要がありさうです」(原文ママ
 慌しさの中で欠落していく自分を修繕してくれる友達か、と思う。羨ましいな。
 この本を読んでいると、小林秀雄川上徹太郎大岡昇平中原中也などが大いに酒を酌み交わし、喧嘩しながらもなお、互いが「こはれ掛った写真機」(原文ママ)を修繕する関係だったことがわかる。
 当時はケータイもEメールもなかったけれど、彼らの絆はじゅうぶんに濃密だった。そう考えると、便利さや快適さと引き換えに失ってしまったものに対して、ぼくはあまりに無自覚だ。近頃、取材以外で、きちんと人と向き合ったことがない。唐突にそんな気がしてきた。
 同じ手紙に、宇野さんはこうも書いている。
「私はこの十日ほど、あれは日が暮れて慌しい町の人混の中を独りでせかせかと通り抜けるたびに、何と言ふ空虚な思ひに駆り立てられるか分からないのです。『さうだ、私はほんとに生きているのだらうか』と言ふやうな、差し迫った気がするのです。笑ひ、話しかけ、あんなに駆け出したりしている大勢の人々との間に、こんなにもはっきりとした断層を感じるのは、これが老年と言ふことなのでせうか」(原文ママ
 さうだ、私はほんとに生きているのだらうか―同じ問いをぼくは自分に向けてみる。
 ちんたら原稿を書いては消しながら、自分の文章力の無さと向き合いイライラしながら、生きていると感じた。筋トレのときに、衰えゆく体力を体感しつつ汗をふりしぼりながら感じた。
 宇野さんのこの文章を読みながら、あんなに痛快な人生を生ききったかに見える彼女でさえ、こんな焦燥に身悶えしていたのかと思うと、とても励まされる。
 活字の向こう側が、ふいに秋の夜の雨音の向こう側へとつながり、この手紙を青山さんに宛てて書いていた彼女とも、ほんの少しつながったような錯覚をおぼえて、心がぷるぷると震える。そのときもぼくはやっぱり生きている感じがした。