胃癌手術報告に見る松岡正剛さんの作家魂〜『千夜千冊』番外編

 松岡さんが胃癌で入院されたのは知っていた。でも、その後の動静はニュースにはならなかったので、まだ入院中なのだと思っていた。それでふいに、右アンテナの『千夜千冊』をクリックしたら、番外編として胃癌手術報告がアップされていた。
 驚くほど詳細な手術報告で、そのディテールの精緻さに読みながら、笑ってしまった。だって麻酔を打たれた後、意識を失ったはずなのに、自分に施された手術内容まで細かく書かれているんだもん。松岡さん自身が、「で、あのとき、オレ何されてたの?」と関係者に取材して書かれてあるにちがいないぞ、これは、と思うと、稀代の評論家の詳細への執着ぶりが、滑稽かつ愛らしかったからだ。


 しかも、ご親切に手術前、術後の管まみれの状態、退院時と、さまざまな写真付きという徹底ぶりだ。見事である。


 書物を通してその人物を書くという『千夜千冊』の書き手は、書くことでその人物を暴いてきた。と同時に、それを書いている自分の強みも弱みも、その文章を通して堂々とさらされてきた。書くという行為は、公衆の面前でのストリップと似ている。その職業意識が、いや、その業(ごう)こそが、彼にこんなあけすけな手術報告の長文を書かせたにちがいない。いや、書かずにはいられなかった、と書いた方がより正確だろう。この文章は、ぼくにとっても途方もない勉強だ。チンピラ物書きであろうと、その姿勢は盗み取りたい。


 松岡さんの文章を読みながら、ぼくには幸田文(あや)さんの『父・こんなこと』が思い出された。明治の文豪・幸田露伴の臨終を、一人娘の文さんが精緻かつ哀切に描ききった名作だ。
「からだ中にがっくりした潰(つい)えが見えた。骨太なだけに筋肉が萎えはじめては、胸や肋骨がむごたらしく浮きだし、鎖骨の窪みは気味がわるかった。胃部が断崖のように落ち窪んで、腹がたふたふしていた。酒焼けの領(えり、原文ママ)もとがV字型に赤く、全身美しく白い皮膚だった。これが私がよく知っている四十余年間の父の、臨終の肉体だった」


 まるで舐めるようなアングルで、死に蝕まれる父の肉体のあれこれを描写した後、彼女はこう書いた。


「けさは、私の父でなく死の占領したものである時間の方がすっかり多くなってしまった。人はそれを見て涙ぐんだりしたが、私はつまらなくなっていた。はっきり云ってしまえば、こんなものならいやだ、もういらないと思った。「早く楽におなりの方が」と云う人もいた。父にはもうすでに楽であって苦痛はないと私は知っていたから、早く息をひきとってもらいたいなどと思ったのではないが、こんなからだだけならいやだと思い、父の蒲団の上へ一緒にすわりこんで、じっと見ていた。ときどき短い間を、ほんとの父にかえってくれるとき、怒涛のような悲しさとなつかしさが押しよせた。
『お父さん、わかりますか。』
『文子だろ。』
 それは侵(し、原文ママ)み入るような悲しさであり、尊敬すべき父の姿だった」

 からからに乾ききった雑巾(ぞうきん)から、さらになお絞り出された呻(うめ)き声みたいな感情。父親の臨終をこんな文章とともに看取ったことで、幸田文という作家が生まれた。それが彼女のデビュー作となったからだ。


 自らの病や、肉親の死と真摯に対峙するために、言葉という道具が必要で、やむにやまれる心情でその道具をどうにか使いこなしながら、それらに対峙する中で、立ちあらわれる才能というものがある。物事の本質を冷ややかに見きわめる目と、より深き意味として掘り下げる感受性と洞察力。
 松岡と幸田さんの二つの文章は、書き手にとって必要な能力の在り方を示している。

松岡正剛「千夜千冊」番外編

父・こんなこと (新潮文庫)

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