エラ・フィッツジェラルド『ライク・サムワン・イン・ラブ』〜すべてはつながっている

rosa412004-10-26

 朝からずっとエラ・フィッツジェラルドのCD『ライク・サムワン・イン・ラブ』を聴いていた。くすんだ山吹色のバックに、エラの左の横顔がモノクロで載っていて、ジャケ写買いした一枚だが「当たり」のバラード集だった。
 切ない別れの物語を、柔らかで懐深く、ゆったりした彼女の歌声で聴くと、その温かみと切なさの頃合いがちょうどいい。とりわけ、朝から雨が降る日にとてもしっくりくる。たとえば、こんな風に。

あなたのキスも あなたのほほえみも
永遠に大切な思い出よ
だから心から信じましょう。
私たちはまたいつかきっと一緒になれるって



『We'll Be Together Again』より抜粋


 とりあえず一本の原稿をラフに仕上げて、雨の中、駅前のジムへ。予想通り、空いていたプールでゆっくりと泳ぐ。といっても下手の横好きなので、クロールも平泳ぎも100mも泳げば、必ずウォーキングコーナーに移って小休止する。それでも下手は下手なりに、時折何ら力むことなく、水に乗れるときがある。そうでないときの方が圧倒的に多いのだけれど、そのときの幸福感ったら言葉にしづらい。
 それに新潟のことを考えると、日中にそういう時間を持てることの幸福を改めて感じる。温かい蒲団で眠れること。贅沢ではないけれど、奥さんが食事を作ってくれること。TVの『さんま御殿』など観ながら、夫婦で楽しく食事ができること。そういう当たり前のことへ感謝する気持ちを見直したい。それにささやかでも地震への備えも。
 プールには黙々ときれいなクロールで泳ぎ続けている中年女性がいて、かっこいいなぁと思う。とりわけ、ターンする際に身体がまっすぐに伸びる姿勢は、明快な意志を感じさせる。それはつぼみをふくらませる寒椿に似たきれいさで、ぼくにだって体現できるものなのだ。

夕食後、仕事部屋で再び『ライク・サムワン・イン・ラブ』をBGMに、白洲正子さんの『日月抄』を読む。歌人西行の和歌が生まれた場所をめぐり歩いた『「西行伝説」真贋紀行』の中で、白洲さんのこの一文が目に飛び込んできた。
「現代の私達に一番欠けているのは、淋しさを友とする風雅ではなかろうか。」
 むむむむっ。あいかわらず、心の一番柔らかくてもろい部分に、ズバッとまっすぐな言葉をぶつけてくる人だなぁ。その一文の少し前には、若き日の西行の歌のいくつかが引用されている。


「心から心にものを思はせて身を苦しむるわが身なりけり」
「悪しよしを思ひ分くこそ苦しけれただあらざればあられける身を」
「いとほしやさらに心のおさなびて魂(たま)切(ぎ)られるる恋もするかな」


 23歳で出家し、旅を「修行」として己に課しながら、行く先々で歌を詠んだ若き西行の青々とした葛藤が率直に語られている。それらの歌をふまえて、白洲さんはこう書く。
「桜にうかれることも、恋に魂を奪われることも、花鳥風月を歌うことも、みな同等の意味をもっていたに違いない。別言すれば、西行の旅は『精神の遍歴』を意味したので、自我を捨てて真の自分自身と付き合うことにほかならなかった。」
 それこそが「淋しさを友とする風雅」なのだ、と彼女はそう言っている。その「淋しさ」の深度は、死ぬために生きている存在としてのそれにちがいない。
 そんなことをぼんやりと思っていると、再び、エラの歌声が耳にまとわりついてくる。一語一語をしっかりとかみ締めるように、そのくせ元彼に失礼にならない程度の距離感で、ささやきかけるような歌声で。

変わりない?
今どうしているの?
あなたは少しも変わらないのね
相変わらずハンサムで 本当にそう思うわ

(中略)

じゃあ、これで
どうしてるのなんて、あれこれ聞いてごめんね
もちろん、あなたは知るわけもないよね
わたしが今もずっとあなたを愛しているってこと

ただちょっと知りたかっただけ
あれからあなたがどうしていたのかを


『What's New 』より抜粋

 
 エラの歌声も、男と女の物語も、中年女性のきれいなクロールも、西行の歌や「淋しさを友とする風雅」も、すべてはひとつにつながっている。一方、朝からの雨はまだ降り続いていて、時折、雨水をまき散らしながら走る車のエンジン音が窓の向こうで鳴っている。


ライク・サムワン・イン・ラヴ

日月抄