『笑の大学』〜笑い笑われることで、人は惜しみなく自分を愛している

rosa412004-11-01


 まがりなりにも、文章を書いて米や野菜を買うようになって痛感したことは、人を笑わせる文章は、泣かせる文章よりはるかに難しいということだ。さらに、人が真剣に怒っている姿で笑いを誘ったり、人が高らかに笑っている姿で、観る者を涙ぐませるとなると、その難度は飛躍的にアップする。オリンピックでいえば、超E難度級だ。

 そう考えたとき、大阪生まれのぼくは、恥ずかしながら気づいた。われらが故・藤山寛美が、どれほど偉大な喜劇人だったのかを。泣きから笑いへ、笑いから泣きへと、観る者を揺さぶりつづけた彼の舞台はまさに至芸だった。
 そして数年前、テレビで舞台版『笑の大学』を観て、東京にはあの藤山と肩を並べる、脚本家・三谷幸喜という偉大な才能がいたことを知った。それは西村雅彦と近藤芳正が演じていた。

 先週末に上映が始まった映画版『笑の大学』を、今日、奥さんと観にいった。映画の時代設定は戦時中、しかも次第に日本が敗色濃厚になっていく頃だ。政府側の検閲官役の役所広司が、喜劇一座の座付き作家役の稲垣吾郎に、あれこれと無理難題をふっかけて、時局にふさわしくない喜劇芝居を中止に追い込もうとする。役所が稲垣の台本にあれこれとクレームをつけるのに対して、稲垣はそれを逆手にとって笑いに転化していく。その攻防こそが、舞台同様、この映画の屋台骨だ。詳細は書かない。

 ただ、役所が怒れば怒るほど、それを観ている者は笑える。そんな役柄を彼は熱演している。一方、役所と比較するのはかわいそうだが、稲垣が俳優として弱い。とりわけ最初の方に、テレビ『スマスマ』のコントみたいに、いたずらに漫画チックな演技で彼が逃げてしまったために、最後の稲垣にとって一番の見せどころで、観ている方が泣けない。泣ききれない。結果から見れば、役所一人が笑いも涙もかっさらっている。舞台版で座付き作家を演じた近藤のように、負け戦覚悟で、稲垣は役所に対して生真面目なガチンコ勝負を挑むべきだったと思う。残念だ。

 たとえば、普段は尊大きわまりない人物がふともらすオナラや弱気にこそ、笑いや涙の種はひそんでいる。そのギャップ、その意外性こそが人の心の琴線をくすぐるからだ。役所に負けない生真面目さや、堅物な男として稲垣が演じた方が、笑いはさらに増幅したはずだ。

 そして笑うとは長短所をひっくるめて人間を愛(いつく)しむということだ。だって検閲官の傲慢な態度や気まぐれに腹を立てる人はいても、普通は笑わないし、笑えない。それでも笑えてしまうのは、その傲慢さや気まぐれぶりに、観る側が何らかの可愛げや憎めなさを見い出しているからだ。
 もっと言えば、『笑の大学』を観る者は、そんな傲慢さや気まぐれさを大なり小なり持っている、自分自身を笑っている。「ああ、おれたち人間ったら、まったく・・・」なんて心の中でブツブツつぶやきながら。それを意識するかしないかは別にして。
 つまり一見、この映画で人は誰かを笑っているようでいて、実は自分が笑われている。そうして笑い笑われることで、人は自分を惜しみなく愛している。ちょっとややっこしくて、エッシャーの騙(だま)し絵みたいな話なんだけどね。

映画『笑の大学』オフィシャルweb