スパイク・リー監督『25時』〜傷つき分裂するアメリカの痛ましき寓話

 少し酔って帰ってくる途中、TUTAYAで以前から観たかった『25時』を借りた。物語に目新しさはない。ニューヨークに暮らすアイルランド移民の子供が、麻薬の売人になり、警察に逮捕される。刑務所で7年の懲役が決まり、入所するまでの1日を軸に、スクリーンの時間は過去と未来を行きつ戻りつする。
 最後の1日、男は同じ移民の仲間たちと、同棲するプエルトリコ移民の彼女と過ごす。仲間や彼女は、男の”仕事”を黙認した仲間たちでもあり、そのことで自己嫌悪に苦しんでいる。警察の入れ知恵で、男は自分を警察に売ったのは彼女かもしれないと疑心暗鬼になる。そう、スクリーン上の時間軸だけでなく、登場人物たちの心も揺れている。それぞれの相互不信が、画面にサスペンスめいた緊張感をもたらしてもいる。

 圧巻は、刑務所に入る朝、男がアイルランド移民の幼馴染みで、証券マンの友人に自分の顔を殴れと頼む場面だ。その理由は映画を観てほしい。だが男の”生き方”を黙認した友人に、男を殴らせる光景がなんとも痛ましい。主演のエドワード・ノートンの静かで内省的な演技が、物語の奥行きをより増している。そして証券マンの友人の高層マンションの窓の下に、夜の闇に青く光るグランド・ゼロが現れる。まるでふさぎようのない傷口みたいにぽっかりと。

 間違いなく、これは傷つき分裂するアメリカの痛ましき寓話だ。イラク戦争を黙認し、1000人以上のアメリカ人兵士を海の彼方で見殺しにしたのも、同じ私たちアメリカ人なのだと、スパイク・リーは腹に響くベースの旋律みたいに、スクリーンの背後で太く低く語っている。映画『25時』は彼のすばらしき愛国心が花開かせた賜物である。