3つの「小さい秋」

rosa412004-11-10

 相手の急用のため、新宿で昼間ぽっかりと時間があいた。夕方から打ち合わせが2件あり、自宅にもどるのも億劫で、ふいに新宿御苑にむかった。ちょうど、取材前に読んでおきたい本を買ったばかりだったので、1時間半ほど、御苑で日向ぼっこでもしながら読んでしまおうというわけだ。苑内は母子連れや学生カップルがのんびりとした時間をすごしている。

 11月中旬にしては比較的暖かな日がつづいているとはいえ、御苑の木々は点々と紅葉がはじまっていた。しばらく木々の間の道をすすむと、まず土や木々の、そう森の匂いがした。つづいて芝生を歩くと、学生時代に牧場でバイトしたときにかいだ干草に似た匂いが鼻をついた。それは確かに秋の匂いだった。新宿通りからワンブロックまたいだだけなのに、御苑には驚くほどいろいろな匂いがたちこめていて、木々の中には、まるで名前もしらない花びらみたいに鮮やかに色づいた葉を、幹の近くにいっぱい敷きつめているものもある。夕方近くに日差しがそのオレンジ色の度合いを増すと、あたりはさらに秋めいてくる。

 そんな光景に季節感をふくらませながら、ふいに口をついて出たのは、実にシンプルだが、童謡「小さい秋みつけた」だった。だが、ぼくはサビのリフレイン部分ならわかるけれど、それ以外の歌詞がかなりおぼろげだったことにそのとき気づいた。
 打ち合わせをおえて自宅にもどり、あの歌の歌詞をネット検索してみると、いくつかの発見があった。まず作詞者がサトウハチローだったこと。3番まである歌詞だが、1番はこうだ。

誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが 見つけた
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた
目かくし鬼さん
手のなる方へ
すましたお耳に
かすかにしみた
呼んでる口笛 もずの声
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた

「すましたお耳に かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声」
の部分が巧(うま)い。これはぼくの勝手な解釈だが、鬼役の子をかく乱するためか、手をたたくだけではなく、口笛で呼んでいる者もいる。その騒々しさの中で、鬼役の子はもずの声をききわけている。今なら、そんな子供はまずいないぜ(^^;)。
 しかもそれを「すましたお耳にかすかにしみた」と表現している点も憎い。おそらく、「夜風が身に沁(し)みる」というときの小さな痛みのニュアンスと、「色がつく」という意味の「染(し)みる」もかけてある。しかも目ではなく、耳でみつけている点も憎い。

 だが、今回の最大の発見は2番の歌詞だ。

誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが 見つけた
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた
お部屋は北向き
くもりのガラス
うつろな目の色
とかしたミルク
わずかな すきから 秋の風
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた

 えっ、童謡なのに、こんな歌詞かよっ!そう思う人も多いにちがいない。
この歌詞の解釈の仕方は人によって分かれると思う。ネット検索ではわからなかった。知っている人がいたら、教えてください。ぼくは、作詞者ハチロー自身の貧しい暮らしを歌詞にしているように思う。
 北向きの、日がささない、曇りガラスの部屋で、うつろな目の色の赤ん坊に飲ませようと、粉ミルクを水でといているハチロー自身、もしくは奥さん。そのとき、建付けの悪いボロアパートの部屋のどこかから、ふいにすきま風がふきこんできたという情景だ。

 それは季節の秋であると同時に、ヤンチャだった時期を過ごし、人生の盛りをすぎた自分自身にさえハチローは「小さい秋」を見たのではないか。そんな男の悔恨を、彼は童謡にまぎれこませたのではなかったか。

 ハチローの父、佐藤紅緑青森県弘前市出身で、多くの少年少女小説を残した小説家であり、脚本家。その末娘は、直木賞作家の佐藤愛子。紅緑の長男、佐藤八郎は、サトウハチロー以外に、20余りのペンネームで、童謡、歌謡曲、抒情歌、社歌、校歌などを作っている。つまり生きていくために、いろんなペンネームで作詞をつづけた人でもある。くわしくは知らないが、学校での落第、父親からの勘当体験もあるらしい。
 ひらがな書きのやさしい歌詞とは反対に、彼が浮き沈みの激しい実人生を強い葛藤とともに生きた人だということを考えあわせると、そんな深読みをしたくなる。

 そんなことなど知らずに、ガキの頃のぼくはこの歌をのんきに何度も唄ってきた。そういう自分が41歳という年齢で、同じ歌にひとつの「意味」を見つけてしまった偶然が、なによりぼくの心にしみる。