大島弓子作品の色あせない詩情(ポエジー)

秋日子かく語りき (単行本コミックス)

秋日子かく語りき (単行本コミックス)

 
 日々新しい人に会ったり、新しい分野の勉強をしたりするという仕事は、刺激的な半面、ぼく自身のパワーが目減りしてくると、ひどく疲れてしまうことが時々ある。まだ独身だった頃、毎日の取材に疲れたり、体調がすぐれないとき、ぼくなりのリラックス法があった。
 まず、少しぬる目のお風呂に30分ほどボーッとしながらつかり、風呂上りは好きなジャズ歌手ビリー・ホリディのCDをかけながら、大島弓子さんか、玖保キリコさんの漫画「シニカル・ヒステリー・アワー」を読んで、眠気がおそってきたら寝る、というものだ。
 おいおい、おっさんが少女漫画かよ。そんなツッコミもきこえてきそうだから言っとくけど、大島さんや玖保さんの漫画は、下手な小説より文学だからね。しかも口当たりはやさしいし、軽くも読める。
きのう、午前中に福生市まで取材に出かけ、帰ってきたら、ひどく疲れていた。そこで1時間だけ昼寝するつもりが、3時間近く眠りこんでしまった。いそいで仕事を片づけ、日曜日にさぼった筋トレをして、夕食を食べた。すると今度はお腹をこわしてしまった。風邪のひきはじめかと、はやめにベッドに入り、ひさしぶりに読みだしたのが、大島弓子さんの「秋日子かく語りき」。表題の作品は何度読み返しているか、わからない。
 40代の主婦と女子高生が同時に自動車事故にあい、主婦は即死、高校生は無事だった。だが三途の河で、その主婦が1週間だけと命乞いをして、女子高生に憑依(ひょうい)して、自分の家族の面倒をあれこれみようとして、騒ぎをひきおこす。そんなあらすじだ。なんど読んでもイイ。鴨長明の『方丈記』や、J.シュトラウスの『美しき青きドナウ』がさりげなく挿入される。
 自分がいなくなっても、家族の日常はぎくしゃくしながらも平然とつづいていて、その平然さに女子高生であるところのオバサンはどうしようもなく苛立つ。自分の存在意義などまるで無かったかのような現実が、彼女には許せない。自分の家族にとって、自分がそんなちっぽけな存在だったと認めたくないからだ。それは人にとっては普遍的な願いだろう。
 人は死や病いに直面することがなければ、のんべんだらりとつづく日常の輝きにどんどん無頓着になっていく。だが人はかならず死ぬ。死んだ人は何をもっとも切実に求めるものなのか。そこから生きていることの何が見えてくるのか。女子高生に憑依した、死にきれないオバサンを通して、大島さんはいのちの核にあるものに迫ろうとする。あくまでも漫画という形式を踏みはずさない程度に。
 やっぱり何度読んでもいい。とりわけ表題作の「秋日子かく語りき」と、亡き妻が幼稚園児に憑依した「庭はみどり、川はブルー」がいい。「今、ここにある」という現実の重みとありがたさの手ごたえが、あざやかによみがえる。近しい人に対してやさしく、目の前にある現実に対してもっと勇敢でなければと改めて思う。
 時間の流れにあらがい、垂直に屹立(きつりつ)しようと望むものを詩情(ポエジー)と呼ぶなら、大島弓子の漫画は色あせることのないポエジーである。

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