蜂飼耳『孔雀の羽の目がみてる』〜日々の蜜をなめることができる言葉

孔雀の羽の目がみてる

孔雀の羽の目がみてる

 この表紙をひと目見て、やられたと思った。クリーム色の表紙の右端に、紅色で「孔雀の羽の目がみてる」という表題が端整な明朝体で縦に均等に印字されている。表題の上から五番目、下から6番目の「の」の字の右端にかぶるように、小さく金字で「蜂飼耳」と著者の名前が縦に書かれている。そのまま「はちかい・みみ」と読む。
 この左側のたっぷりすぎる余白が無言のまま、この本の行間や余白をこそ読め、と言っているように見えた。気になって目次の反対ページを見ると、「装幀・本文レイアウト=菊池信義」と書かれてある。あの菊池さんがここまで力を入れている本だから、やっぱり間違いないと買うことにした。
 蜂飼さんは、『いまにもうるおっていく陣地』(紫陽社)で第5回中原中也賞を受賞している詩人だ。ただ、今回は詩集ではなく、エッセイ集だ。だが詩人の言葉の片鱗はあちこちに見つけられる。両手に抱えきれない買物袋をさげた人みたいに、ひとつの言葉がとても豊かな行間をかかえている。しかも買物客みたいな見苦しさはみじんもなくて、とても平然とした表情でたっぷりとたずさえている。
 たとえば、「いそいでめくる」という話がある。スーパーの手前の植え込みで、著者は一冊の本を見つける。江川紹子さんの対談集で、いつ落とし主があらわれるかとどきどきしながらも、建築家・安藤忠雄の章と決めて速読する。ヨーロッパで西洋建築の垂直感覚を肉体で知る体験を語る安藤は、その感覚的なものは時間が立つ中で、自分なりの言葉に置き換わるのだが、そうなったら人間は終わっていると語っている。
 筆者は彼の「言葉に置き換えられるようになったら」というフレーズに感応し、詩の言葉も一度置くと、言葉と言葉のあいだに落ちて、ふたたび上がって来ないなにものかがあると書く。
 そして本を植え込みに置いて、スーパーの中入った彼女は、しじみとあさりの透明なパックを持ち上げ、
しじみもあさりも、ときどき、少しずつ死んでいる」と書いた後で、

「言葉は感覚の屍体だろうか。言葉は、感覚の元栓でもあるけれど、場合によっては屍体なのだろう。私はしじみもあさりもすきだ。どちらがすきか、よくわからない」
 と唐突に文章をフェイドアウトする。
 うまく書き伝えられているか自信がないが、ここまで読んで興味をもった人はぜひ読んでもらいたい。詩を作る上で置いた言葉と言葉の間でこそこぼれ落ちてしまう何かを、「感覚の屍体」から「少しずつ死んでいる、しじみやあさり」へと置き換えることで、より生々しく鮮烈なビジュアルとして、読み手にプレゼンする彼女のセンスにぼくは思わずウーンとうなった。
 スーパーの何気ない光景から安藤の言葉へ、さらに感覚の屍体から「しじみやあさりの死」へ。まるで脈絡のないものを一気につなげきってしまう力技は、向田邦子『父の詫び状』を彷彿とさせる鮮やかさだ。
 作家の堀江敏幸氏が本の腰巻に、「ささやかな日々の蜜を、蜂飼さんは言葉ですくって、耳で味わう。」と端的な推薦の辞を寄せている。まさに何気ない日々の光景に滴っている、かたちなき蜜をすくいとる言葉だ。
 語らずに、いかに語るか。書かないことで、いかに雄弁に伝えられるのか―ぼくが一番苦手なことを、とても鮮やかに見せていただいた。感謝。