まずは「勝ち組(犬)」「負け組(犬)」という言い方を捨てよう

 図書館で借りた、佐野眞一『大往生の島』文藝春秋)を読んでいて、目の前がパッと明るくなるような文章に出会った。桜田淳著『「福祉」の呪縛』の一節らしい。(アマゾン、bk−1ともに検索できず)
少し長いが、目が覚める人もいると思うので引用する。

 現在、我が国で行われている「高齢化社会論」の馬鹿馬鹿しさは、「二○一○年には、三人の勤労者が一人の年寄りを支える」という奇怪な議論に象徴されるように、高齢の人々が一律に社会から支えられると想定されていることにある。
 そこでは、伝統的な共同社会において、高齢の人々が負ってきたような「役割」についての視点が、見事なまでに抜け落ちている。近々、国会審議が始まろうとしている「介護保険制度案」にしても、そこで問題になっているのは、「いかに支えるか。また、そのための費用を、どのようにするか」ということであって、「役割」の議論ではないのである(中略)。
 問題となるのは、このような伝統的な共同体社会から切り離された人々に、どのような「役割」を担ってもらうかということである。
 戦後の経済発展の過程において、多くの人々が都会に出ていき、経済発展の第一線で活躍した。けれども、第一線を退いた後で、このような人々に担ってもらうべき「役割」については、依然として合意が出来上がっていない(後略)。」

 何か変だよなぁと思いながら、うまく言葉にならずにもやもやとしていた。そんな気持ち悪さのひとつに、それは見事にピタッとはまる文章だった。
 高度経済成長やバブルが弾け、世界規模の低成長時代に突入してもなお、ぼくの暮らす社会は「右肩上がりの経済成長=幸福」幻想を捨てきれないでいる。たいていの人生なんて、勝ちと負けの際限なき反復の軌跡なのに、「勝ち組(あるいは犬)」「負け組(犬)」なんてレッテルを貼ったりはがしたりして、はしゃいでいる。バブルを反省しながらも、なお「金儲けたやつが偉い」主義は脈々と生息中だ。
 だから働き盛り世代の前後である子供や若者、高齢者は、保護されるべきものとしてしか扱われない。家庭や地域で役割を求められない。子供には家事の代わりに勉強しか与えられない。そこで脱落した人間は、働き盛りグループからも弾かれるから、フリーターや引きこもりやニートになっていく。役割を与えられない若者にはストレスや社会への恨みがつのり、何か事件を起こせば、また無職の若者の仕業か!と、働き盛り世代の彼らへの偏見ばかりがふくらんでいく。つまり、悪循環のくりかえしだ。
 それは高齢者の人たちと同様、金儲けできないから、という理由ではじき出してしまう社会の仕組みの問題だ。地域は自宅と会社をつなぐ経路でしかないからスカスカになり、そのスカスカした地域社会を見透かしたかのうように、社会で役割を与えられない人たちによる犯罪が起こると、子供のランドセルに電子タグなんかつけて管理しようとする人たちが現れて、地域はさらに猜疑心にみちた場所として、人影が失われていく。
 むしろ、老人や子供や無職の若者たちを取り込んで、それぞれに役割を与え、多少時間はかかっても地域コミュニティを作っていくという発想をもたないと、根本的な問題はなにも変わらないだろう。生きていくのにお金は確かに必要だけど、金儲けたやつが偉いという考え方は一度きちんと捨てないと。
 リッチな老人ホームの70歳のおじいちゃんより、毎日、畑仕事に精を出す90歳のおばあちゃんの方が元気だったり、途上国で学校にも通えず、でも生きていくために毎日必死なストリートチルドレンの方が、学校と塾に忙殺される中年オヤジみたいな顔した小学生より、生命感にあふれていたりする。メディアや現実で誰もが大なり小なり見聞きしている現実を見ているようで、じつは誰も見ていない。

桜田淳さんにはこんな共著がありました。上記の引用した視点と近そうな匂いがします。

「弱者」という呪縛―戦後のタブーを解き放て!

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