崔洋一監督『血と骨』〜「戦後民主主義」を蹴飛ばしつづけた男

rosa412004-12-24

 カップルやファミリー映画全盛の今、男一人が映画館の暗闇で肩で風切るような気持ちと姿勢で観られる映画が少ない。自分がいかに泣いたか(感動したか)を、ど素人のオコチャマ・カップル(しかも男女ともにブサイクで庶民的)がニタニタしながら喧伝するようなのばっか。感動するのは勝手だけれど、テレビCMでそれを自慢げにしゃべるのは勘弁してもらいたい。そもそも「感動」は多数決とは無縁な代物だ。そういう羞恥心や矜持を失ったオコチャマたちや、彼らを転がして「多数派」を喧伝する錬金術。その「自由さ」や「平等ぶり」に、「戦後民主主義」の朽ち果てかたが透けて見える。
 ビートたけしが撮る映画が好きなのは、彼の映画には冒頭で書いたような、男を肩で風切る気分にオッ立ててくれる空気が連綿とあるからだ。それは高度成長期なら、鶴田浩二などのヤクザ映画が担っていた部分だろう。そんな彼が主演した映画『血と骨』、銀座シネパトスでの上映最終日だったこの日、午前10時20分の回には、ネクタイ締めた会社員らが、わずか80席の小さな映画館にぽつんぽつんと座っていて、とてもホッとした。
 梁石日の小説血と骨〈上〉 (幻冬舎文庫)を、映画はとても忠実に描いている。この本来なら広く読まれるはずのない在日小説がヒットした理由は、あらゆる理屈を拒む暴風雨のごとき男、金俊平の魅力だったとぼくは考えていて、映画もそこを執拗に追っていく。妻や子供、周囲の男や女たちを、まさに力づくで屈服させていく在日朝鮮人の一代記だ。
 「はてな?」の感想で、映画が描く理不尽な暴力への嫌悪感を語っているオコチャマが何名かいたが、それがまるで的外れなのは、金俊平にとって暴力こそが唯一の言葉だからだ。男の内面なき、理不尽な暴力(ことば)が、「自由」「平等」「ヒューマニズム」という戦後社会の根幹に、実に小気味いい風穴を開けてみせた。それがこの小説の男根であり、詩だ。
 しかし映画として観ると、止むを得ないのだけれど一代記ゆえに総花的で、股間をグッと握られるような場面に欠ける。その一方で、作り手として、崔監督が金俊平の死にざままでを描くことに執着した理由もよくわかる。あえていえば、自殺した娘の告別式に「娘はどこだ!」とわめきながら乗り込んでひと暴れした後、突然、朝鮮語で妻を呼び、おびえた表情で「足が動かねぇよ」ともらす場面か。
 ひんぱんに登場する路面電車のまっすぐに伸びる線路も、行き場のない在日朝鮮人の<未来>の象徴としてうまく使われている。そのきっぱりとした直線とは対照的に、蛇が同じ場所でとぐろを巻くように 男は本家の斜向かいの愛人宅で暮らし、その閉じた共同体だけで人生を浪費する。どこにも抜け出せない。
 しかも金俊平が老い、男としての力(パワー)を失ったときに金貸しに転身してから、お金に依存し、そのお金によって女や故国に裏切られていく顛末が切ない。それは在日社会を取り囲む高度経済成長の顛末とまるで相似形だから。徹底した暴力という言葉で、戦後社会の欺瞞を蹴飛ばしつづけたかに見えた男も、しょせんは経済という幻想からは逃れられなかった。