岡本太郎美術館「テレビ発掘 まる裸の太郎」展〜松明(たいまつ)のような言葉

rosa412005-01-15

 しょうしょうと細い雨がふり、ぱたぱたと傘が音を立てている。朝から雨模様だった今日、生田緑地はとっぷりと暗くなってしまった。頬に吹きつける風も冷たい。なのに、心はとても熱っぽい。
 ぼくの前を二人、後ろを一人の男性がそれぞれ向ヶ丘遊園駅をめざしているのだけれど、おそらく4人ともが、同じ温度差をかんじているはずだ。岡本太郎の松明のような言葉と表情に、散々あおられつづけたから。
「自分自身がオモチャなんだから、自分で自分を使ってメチャクチャ遊んでやればいい」
「きれいに描かない、うまく描かない、ここちよく描かない。それがぼくの芸術の原則なんだ」
「ほんとうは名前なんて無用なんだ。名前があるから、人間は自分さがしをしたり、他人とくらべたりしてしまう。空を飛ぶ鳥を見ろ。彼らは自分は何だろうと悩んだり、他人とくらべたりしない。そのかわり、あんなに悠々と空を舞っているじゃないか」
 正直、この手のアフォアリズムがぼくは苦手だ。ただ、正確にいうと、むのたけじ岡本太郎以外の、と付け加える必要がある。その言葉どおりに生ききった岡本の言葉は、ひとつひとつが火を噴いているかのように、昔のテレビ画面からぼんぼんとはみ出してくる。有無をいわせない説得力が観る者にも飛び火する。
「子供だとか親だとか、父親だとか娘だとか、名前にとらわれるから、つまんなくなる。おじいちゃんと呼ばれて自分でしょぼくれてしまう。名前なんて、年齢なんてどうでもいいんだ。いつも男と男で、男と女で、正々堂々バーンとぶつかっていればいいんだ」
「主体性なんていって守りに入るから、つまんなくなる。結局、闘う相手は自分なんだ。その主体性を疑って、掘り返していけば出てくるのが本当の主体性で、それを永遠にくり返すだけなのさ」
「子供は5歳くらいまでは絵の天才なんだ。なのに7歳、8歳になると他人の目を気にするようになって、枝はこういうので、太陽はこうでと形を整えはじめて、その時点ですでにつまんない社会人になってしまう」
 岡本太郎美術館での「まる裸の太郎」展は、常設展にくわえ、かつて岡本が出演したテレビ番組をすべてみせる開館5周年の特別企画がおこなわれている。明日16日までだ。去年から行こうと思いながら、結局は企画展終了の前日になってしまった。この日は圧倒的に20代の入場者が多かった。みんな、心の火を求めて、こんなくそ寒い雨の日に、わざわざこんなところまで出かけてきたにちがいない。
 ビタミンCが足りなくなるとミカンやイヨカンがふいにほしくなり、パワーに自信がないときにトンカツがむしょうに食べたくなるように、今の自分が岡本太郎を求めた理由もよくわかった。
ちなみに、美術館には絵画やオブジェ作品も展示されているが、ぼくはオブジェの方が好きだ。とりわけ、館外に設置された巨大な「母の塔」(無料で観られる)と、実母・岡本かの子をイメージしたという「誇り」(館内)は双璧。この二つを向かい合う格好で設置している点にも、岡本の強い思い入れを感じる。
「母の塔」は母性の豊穣な生命力をグラマラスに、しかも得体のしれないものへの岡本の畏敬の念をじゅうにぶんに感じさせる。それとは好対照に、全長2mほどの「誇り」は、まるで羽をひろげた鶴が今まさに飛び立つ瞬間を模したように繊細かつ優美。

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

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