福田恆在・文「一匹と九十九匹と」〜鋼鉄製UFOキャッチャーの威力

 左アンテナの茂木健一郎さんのクオリア日記(1月28日分)を読んでいて、久しぶりに福田恆在さんの文章にふれた。しびれた。ずいぶん、ご無沙汰していたのに、福田さんの言葉はやっぱカッコイイ。
 まるで鋼鉄製UFOキャッチャーみたいに、目には見えない物事の本質をむんずとつかみとり、一度つかんだら決して離さない、骨太で冴え冴えとした視線。きれいに割れた腹筋を思わせる文章。引用させていただきます。興味がある方はご堪能ください。

「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしもその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失っせたるものを見いだすまではたづねざらんや」(ルカ伝第十五章)
……かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つていたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見ていた。なぜなら彼の眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれていたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいったいなにものであるか――イエスはそう反問している。
文学は――すくなくともその理想は、ぼくたちのうちの個人に対して、百匹のうちの失はれたる一匹に対して、一服の阿片たる役割をはたすことにある。
そしてみづからがその一匹であり、みづからのうちにその一匹を所有するもののみが、文学者の名にあたひするのである。
 かれのみはなにものにも欺かれない――政治にも、社会にも、科学にも、知性にも、進歩にも、善意にも。その意味において、阿片の常用者であり、またその供給者であるかれは、阿片でしか救はれぬ一匹の存在にこだはる一介のペシミストでしかない。
その彼のペシミズムがいかなる世の政治も最後の一匹を見逃すであらうことを見ぬいているのだが、にもかかはらず阿片を提供しようといふ心において、それによつて百匹の救はれることを信じる心において、かれはまた底ぬけのオプティミストでもあらう。そのかれのオプティミズムが九十九匹に専念する政治の道を是認するのにほかならない。
このこれのペシミズムとオプティミズムとの二律背反は、じつはぼくたち人間のうちにひそむ個人的自我と集団的自我との矛盾をそのまま容認し、相互肯定によつて生かさうとするところになりたつのである。唾棄すべき観念論的オプティミズムとは、この矛盾をいづれの側へか論理的に一元化しようとするこころみを意味する。