糸井重里さんの複眼〜違和感・違和感の原因・自分のトライアングル

rosa412005-02-21

 う〜ん。糸井さんの「ダーリンコラム」(左アンテナ)を読んでいると、ときどき、そんなふうにうなってしまう。これは生来のセンスか?いや、修練の末に身につけたものなのか?って。
 今日更新された<わたしは遊び、わたしは芸術>を読みおえて、その「う〜ん」状態になった。テーマは岡本太郎。「歌のうまい人がうまい歌を歌うなんて、つまらないじゃないか」と否定した岡本太郎について書いている。そうやって芸術家としての自分を否定しつつ、彼が作品を作っていることにしきりに感心している。
 その一方で、恋愛やスポーツも確かにプロの演技やプレイに感動する自分も大切だけど、どちらも自分でやった方が面白いとも書く。客観から主観へ視点を戻したあとで、さらに彼はその両方を見比べながら、こうくる。

しかし、「自分がその遊びそのものになる」という
かけがえのないおたのしみを、
他人にさせてそれを代償行為としてたのしむ、
そういう「たのしみの分業」というのは、
人間の歴史がつくってきた不思議な文化だとは思う。
その不思議さを、不思議と思わずにはいられなかったのが
岡本太郎という人だった。
おもしろいなぁ、ほんとうに。
               <わたしは遊び、わたしは芸術>より一部抜粋

 この「お楽しみの分業」という視点がすごい。上手い歌を歌う人と、その歌を好きになる人がいるから、ヒット曲が生まれて文化になる。
 それは「自分がその遊びそのものになる」というお楽しみを、他人にさせてそれを楽しむことで、だから「分業」だとらえるのは、そう簡単じゃない。さらに、「人間がつくってきた不思議な文化だ」と感嘆してしまえる感性は、かっなり高度だ。
 先週18日の日誌で、ぼくが書いた「当事者の至福」って、まさに「自分がその遊びそのものになる」ことの楽しみだ。それはこの「分業」という視点から見れば、実に幼稚で浅はかな単眼だ。
 やっぱ、修練だな。物事に対する自分の違和感、その違和感を感じさせる物事。その両方をもう一度よく見くらべて、さらに一歩踏み込んだり、後ずさりして、たまには口笛なんかもふきながらもジロジロ見て、その両方と自分との三角関係について、あれこれ考えてみるトレーニングが必要だ。今さら、かもしれない。でも、もしかすると、もっと深みのある企画書が書けるようになる、かなぁ〜。