幸田文著『番茶菓子』〜意外な見っけものと母子の縁

rosa412005-03-05

 週末の朝、蒲団の中でモゾモゾしながら読むシリーズ2回目は、幸田文(こうだ・あや)さんの短編エッセイ集。しかも、適当にひらいたページで「彼岸ちかく」を読みだした。
 すると、父・幸田露伴の娘への叱責が心にひびいた。少し長いが引用する。

「秋口にかかろうとする夏の端境に著(き)る単重(ひとえ)は、何年も著(き)古してしおれた絹物なんか着てもらいたくはない。夏という季節もそこまで来れば老いて衰えるし、風物も荒れて曝(さ)れている。そのなかでしおれたものを著(き)ていれば、いい若いものが薄ねぼけて見える。ものの初めには活気があるが別れには情があるべきものだ。眼のさきに来る季節のことばかりに、あの著物この著物とあくせくして、終わろうとする季節を惜しんで送ろうとするなごりがないのは疎ましい。夏の終りにはたとえ木綿でも新しいものをしゃんと著て、別れようという心意気がほしいものだ。別れ際に風情のない女になんでおしゃれも著物もあるものか」

 著という字は「着」の旧字だと思うのだけれど、文中にひとつだけ「着」の字が使われている。もしや、これは誤植か?季節への深い愛着と、着物の関わり。昔の「衣替え」という言葉は、こんなニュアンスもふくんでいたのなら、ぼくが使っているそれは、ずいぶんとやせっぽちになってしまっている。この一文を読まなければ、自分がそれを失っていることにさえ気づかなかった。
 次のエッセイ「冬のきもの」では、「持ったが病(やまい)」という言葉と出会った。まるで初対面だったが、懐が深い言葉だ。幸田さんの説明だと、まずは「なんでも持っているものをありったけ身につけて、ひけらかしたがるのを指して使う言葉らしい。そのユーモラスな語感がいい。だが、どうも言外に過度な所有欲や物欲を、遠まわしに揶揄しているニュアンスもある。やんわりな毒を感じる。
 どちらも話も、まるで押入れの整理でもしていて、意外な見っけものでもしたみたいな読後感だ。
 そういえば、去年のクリスマスに、実家の家族に一人一冊ずつ本を贈った。母親には幸田文さんのエッセイ集『包む (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)』を贈ったら、「これ、持ってるわ」といわれて驚いた。幸田文さんの本を持っていたのもそうだが、数多い彼女の著作の中で、ぼくが気に入った1冊を、母も読んでいた偶然が面白くもあった。不思議な母子の縁である。

番茶菓子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

番茶菓子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)