ふたたび『オペラ座の怪人』〜音楽の美か、恋人への愛か

rosa412005-03-16

 取材終了後、ふたたび六本木ヒルズで映画『オペラ座の怪人』を鑑賞。今回は奥さんと彼女の学生時代からの友人Mさんの3人で観た。今月10日(id:rosa41:20050310)の日誌でも、簡単なあらすじは書いているので、今回は踏み込んで書く。まだ映画を観ていない人でこれから観ようと思っている人は、どうか読まないでほしい。しかも断っておくが、かなり長い文章になる。
 2回目だと、さすがにクリスティーヌの歌声に”指”拍手することもなく、割と冷静に観られた。その分、映画全体を冷静に観ることができた気がする。
 歌姫クリスティーヌの死は早すぎたものの、一見、彼女と美男の子爵ラウルは永遠の愛を貫いたかにも見える映画だ。映画の公式webに寄せられた女性ファンの熱烈な書き込みも、「怪人役で失恋してしまうファントムがかわいそう!」という声が多い。
 しかし、よく観ればわかるけれど、妻に先立たれた老人として何度か映画に登場するラウルは、けっして幸せそうには見えない。もっといえば、鎮痛な失意のかげりがその表情にうかんでいる。
 クリスティーヌと結婚し、二人の間に生まれた子どもも育て上げて、最愛の妻の最期も彼は看取った。だが彼女の心の半分、音楽家としてのクリスティ−ヌの師ファントムへの尊敬と愛は、ラウルの生涯をかけた愛情をもってしても奪えなかったからだ。
 おおざっぱを承知で書くと、人間にはふたつの自分がいる。ひとつは形而上的なもの、かたちを超越して精神的なもの、絶対的な美や善、あるいは理想を追い求める自分。もうひとつは形而下的なもの、かたちをもつもの、物質的な欲望や幸福、平穏な暮らしといったものを求める自分だ。
 歌姫クリスティーヌは、彼女に永遠の愛を誓う二人の男の間で悩み、苦しむ。一人は彼女の敬愛する音楽家の父の死後、その父に代わって<天使の音楽>を幼い頃から彼女に授けてきた怪人ファントムであり、もう一人が幼馴染で美男子な子爵ラウルだ。それは人生の理想と現実の間で、葛藤しながら生きている人間の普遍的な姿のメタファーでもある。
 音楽の美に殉ずるべきか、恋人への愛へ殉ずるべきか。こういう主題はヨーロッパ映画だよなぁ。ハリウッドには作れない。

 しかも、この物語が上手いというか、ずるいのは、彼女に形而上的な愛を説くファントムは、顔半分は渋い男前なのに、もう半分に醜い傷をもつゆえに、仮面を手放すことができず、オペラ座の闇でしか生きることができない男で、一方の形而下の愛を説くラウルは若きハンサムなお金持ち男という、キャラクター上のひねりが加えてある点だ。
 だから、顔の美醜とストーリー上の幸・不幸だけで映画を観る人は、「ファントムさま、かわいそう」となる。そのレベルならハリウッドにも作れる。
 しかし、きちんと形而上的な部分をひっくるめて観ることができた人なら、ファントムとラウルの永遠の対決は、映画の結末においてドローだということがわかる。最後のシーンで、老いたラウルはクリスティーヌが父とともに眠る墓に、ファントムの洞窟に置かれていたゼンマイ仕掛けのサル人形を供えに来る。映画の冒頭で、壊れたままのオペラ座で行われたオークションに、ラウルがその老身で自ら出向き、競り落とした人形だ。
 そのサル人形にこめられた意味はひとつだ。彼女がファントムを愛していた事実を率直に認め、自分とは違う男を愛して他界した君を、それでもなお、ぼくは愛しているという決意表明だ。そうすることで、音楽家としての彼女の理想を満たしてやれなかった失望を、彼は乗り越えようとした。
 しかし彼女の墓には、自分より先に、ファントムからの深紅のバラが、あの黒い紐で結ばれて供えられているのを、ラウルは見つけてしまう。映画の結末に、歌姫亡き後もなお、彼女への永遠の愛を誓う二人の男たちの、新たなる戦いの始まりが暗示される。もちろん、それは形などという下世話なものはもたない、真実の愛の戦いである。