横浜美術館『マルセル・デュシャンと20世紀美術』展〜何かにとらわれてしまう「ぼく」という仕組み

rosa412005-03-21

 書きかけの原稿もあるし、翌日の取材の準備もあるしと、ぼくは横浜に出かけるのをためらっていた。だが結果的には、最終日に間に合ってよかった。おかげで、ぼくの価値観のストライクゾーンは大いに広がった気がする。まるでひとりよがりかもしれないが。いい、自分がそう思っていればそれでいいんだ。
 今日観なければ、もしかしたら、これだけまとまったデュシャン展はもう観れないかもしれない。取材の準備はまだ間に合うし、原稿も締め切りはまだ先だ。あやうく優先順位をまちがうところだった。
 有名な西洋式男性小便器を「泉」とよび、文字通りの「自転車の車輪」、衣紋掛けを「罠」とよぶ。日常で使われているものを作品に仕立てる「レディメイド」シリーズもこれだけまとまってみると、屈託のない笑い声が聞こえてきそうだ。美術館に一歩足をふみ入れると、すべてを作品として観てしまう人の弱さを笑っている。もちろん、その声が浴びせかけられているのが、観る側のぼく自身であることを前提にしてだ。
 今回の展覧会のポスターにもなっている、「階段を下りる裸体№2」は、まるで木製の階段の一部かと見まがうばかりの、複雑怪奇な木工細工にしか見えない。
「妖艶な美女の踊りに骸骨のダンスを見る目をもちたい」―以前、詞集『たいまつ』の著者むのたけじの言葉を、ここでも紹介したが、まさにそういう視線だ。でも作品以上に、ぼくが圧倒されたのは、各展示コーナーに書かれているデュシャンの言葉だ。たとえば、こんな言葉・・・。

私がしてきた仕事が、将来、社会的な観点からみて、何の重要性をもちうるとは考えられない。だから、こう言ってよければ、私の芸術は生きたことなのかもしれません。各一瞬、各一回の呼吸が、どこにも描きこまれていず、視覚的でも頭脳的でもない作品になっている。それはある種の恒常的な幸福感です。

 はぁ〜。この文章を読んで、ぼくの内側で何かがへなへなと座りこんだ。肩の力がどっとぬけた。彼の文章はこけおどしではない。ここまで自在で自由だからこそ、男性小便器を「泉」とネーミングして出品できる。自己顕示欲とか功名心のかけらも見当たらない。この人はいつ、どうやって、それらを捨ててきたのだろう。
 2日前に洲之内徹の「自由」と「自在」について書いたが、デュシャンの作品とこの言葉に接してしまうと、申し訳ないけれど、それらを括弧(かっこ)でくくらざるをえない。
 翌日の準備だ原稿だとか、実にみみっちいことにとらわれている自分がたまらなくビンボー臭い。くさい、クサイ、臭い。「自分」で「自分」をみみっちくしている「自分」がいる。住宅ローンにも、功名心にも、性欲にも何物にもとらわれるな、おまえはおまえであればいい。命をとられるわけでもあるまい。好き勝手に楽しく生きればいい。そんな声が聞こえてきそうだ。
「されど死ぬのはいつも他人」
 どこか童顔めいた、イタズラ好きそうな、あるいは怜悧(れいり)な皮肉屋っぽくも見える男の、それが墓碑銘だった。