馬頭観音と不空羂索観音「見仏」(2)〜異形であることの意味

rosa412005-03-26

 きのうのつづき。ふたたび、『見仏記』から、みうらさんの不空羂索観音のイラストを部分的に転載させていただきます。
 まず、いづれも5m超である必要性をあれこれ考えてみた。馬頭(ばとう)は12世紀前半の造立、不空羂索(ふくうけんじゃく)は13世紀前半の再興で、どちらも国の重要文化財だ。今でさえデカイのに、当時ならそのデカさは衝撃的だったはずだ。
 たとえば、禅寺の庭「枯山水」を考えてみる。禅僧が白砂と岩石で世界観を表現した枯山水では、彼岸(ひがん。仏教用語で「迷いから抜け出た悟りの世界」)の象徴である蓬莱山(ほうらいさん。岩石で表現される)は、たいてい、建物からは遠い位置に設置される。反対側の塀ぎりぎりという場合も多い。それは観る側から一定の距離が必要だからだ。
 たとえば、スター歌手やスポーツ選手にいつでも会えるのなら、おそらく誰も憧れない。手近にはない、手がとどかない精神的、物理的距離は、人が憧れや幻想をふくらます上で必要だ。
 それと反対なのが、故人のお墓。これはお花や食べ物を供えたり、水をかけたり、線香を焚いて手を合わせながら、心で対話するためには近い存在である方がいい。一方、災難がないように、あるいは今抱えている苦境や悩みを解決してくださいと祈る対象である観音様も、やはり身近であった方がいい。ただ、お墓と違うのは、祈る者にとって観音は帰依(きえ。仏の威徳に心をかたむけて信仰すること)する対象だ。それなら、憧れに必要な距離ではなく、存在としての身近さと同時に、畏怖心を抱かせるようなデカさが求められたのではないか。
 ミもフタもなくいえば、背の低いやせた男より、背の高い体格のいい男の方が、見た目ずっと頼りがいがありそうという話だ。奈良の大仏とかもそうだ。
 ただ、誤解してほしくないが、馬頭も不空羂索もこの他に、国内外にいくつもある。みんなが5m超ではないらしい。小さいのもある。そのバージョンは多彩だ。今回はこの5m超のものについて、ぼくがあれこれモーソーしているにすぎない。
 では次に、そのデカさだけに飽きたらず、馬頭なら四つの顔で頭上に馬をつけたり、不空羂索なら、頭に十一面観音をのっけて、両観音とも八本の腕が必要だったのか。なぜ、そこまで異形(フリークス)でなければならないのか。
 馬頭観音なら馬が周りの草を食べつくすように、人間の煩悩を食べつくして救済するとか、馬は古代の交通手段として重宝がられていた特別な存在だったという説がある。たしかに観世音寺馬頭観音の前にも、交通安全のお守りが500円で売られていた。パターンとしては顔ひとつから四つ、腕も二本、四本、八本といろんなバージョンがあるらしい。
不空羂索の「不空」は「空しくない」という意味。「羂索」は戦いや狩猟に用いる投網のことで、観音の八本ある手のうち、左側の一番下の手でその網を持っている。この網で、悩みの海におぼれる人々を救い上げるという。
 だが解釈は後付けだから、どうでもいい。要は観音がまとった装飾品の数々は、得体の知れなさ加減を増すために必要だったのではないか、ということだ。日常から生まれる人々の悩みや苦しみを救うには、デカさ以外に、非日常的な意匠(デザイン)をまとった特別な存在である必要があった。なぜなら昔話でも童話でも同じで、キャラクターの得体の知れなさこそが、ファンタジー(幻想)を生むからだ。
 祈るという行為は、見方を変えれば、悩みや苦境の現実をはなれ、それを脱するという幻想にすがりつくこともでもある。すがりつく幻想はより得体が知れず、ファンタジックな方がいい。
 つまり、人々が悩みや苦境を打ち明け、そこから自らを救ってくれる観音様は、より巨大で、より得体の知れない存在として求められた。それらの非日常さ、その余白にこそ、人々はいろんな想いをたくせるからだ。それが馬頭や不空羂索として具現化された異形(フリークス)の意味であり、役割だったのだろう。
 距離感や巨大さ、得体の知れなさ。その非日常さや余白への人々の祈り。約900年間、この世に在りつづけた二体の観音が体現した、それらのキーワードに創造物が長く愛される秘密がある。もちろん、それは多くの優れた小説や絵画、あるいは映画にも共通する、朽ちない虚構(フィクション)のデザインである。