ざんまい京都(1)河井寛次郎記念館(東山区五条坂)〜陶工としての「自分」を遊びつくした人

rosa412005-04-24

 ある日、自宅近くの水道工事現場を通りがかった彼、河井寛次郎は、その水道管をつなぐL字型の接続部位を見て、たいそう面白がり、その形状をまねた陶器を嬉々として作ったという。
 見るもの聞くものの中に、しかも誰も見向きもしないようなものにこそ、美を見出して驚き面白がり、感動してそれに形を与えようとした。それを社会にとっての仕事にしようと精魂をかたむけた人。人間国宝文化勲章に推挙されてもそれを拒み、一人の陶工として造形の世界で遊びつくし、76歳の人生を全うした彼らしさを感じるエピソードだ。
 たいそう立派な京都国立博物館近くにある、かつて河井邸だった場所を記念館としたそこは、路線バスの運転手もしらず、その周囲に看板も出ていなかった。近所のタバコ屋さんのおばあさんにきいて、ようやくたどりつけた。それもまた彼らしい。
 その作品は、どこか原始的な土偶とか壁画っぽい。頭ではなく、手と目で作られ生まれてきた作品という印象をうける。しかも、そのいちいちに「いいなぁ」とか「おもしろいなぁ」という、作り手としての彼の声音まで聞こえてきそうだ。子供っぽさとダイナミズムが表裏一体なものとしてある。
 装飾的な作風から実用的な民藝へ、さらには抽象美術の世界へと、その作風を変えていった軌跡も、その都度、自分にとってのリアルを追い求めた結果だった。

自分で作っている自分
自分で選んでいる自分

自分で自分を規定している自分。自分をそれだけの自分だと限定している自分。自分というのは自分が作っている場所の謂(いい)なのだ。だからこそ作り放題の場所。どんなにでも作れる場所。

ない場所に立っているない自分。これ以外に吾等の場所が何処にあるのであろうか。どんな自分を作ろう。どんな自分を選ぼう。
              河井寛次郎火の誓い (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)講談社文芸文庫より

この文章を読んで、なぜ自分が今、河井に惹かれ、この記念館を訪ねたのかがはっきりとわかった。