ざんまい京都(2)大原・実光院と宝泉院(左京区大原)

 大原を歩いてみて、日本人の子孫であることを誇らしく思った。こういう美意識を後世に残した祖先も、その意志を継承してきた人たちもふくめて、すばらしい。

 あまり期待せずに入った実光院の庭は石楠花(しゃくなげ)が満開で、どこか桃源郷めいていた。また、枯山水をまねて、池を境に彼岸と現実(うつつ)という世界観が、しっかりと織り込まれている。そこもいい。
 しかも三千院や宝泉院と違い、それほど有名でないせいか、見学者も少なくてよかった。カセットテープレコーダーから流れる声明(仏教の経典などに節をつけて歌う仏教音楽。和風”グレゴリオ聖歌”)が、その絢爛たる景色と実によく合う。少しトリップしそうなほどだ。池泉鑑賞式の滝からこぼれ落ちる水音とホトトギスの鳴き声が、かろうじて時間の流れを知らせてくれる。

 今回の大原行きの本命が、この宝泉院。柱と柱を額縁に見立てて、自分の好きな見所を探すという趣向だ。同行した大学時代の友人二人と、うちの奥さんも右側のふすま景がいいと言っていた。だが、ぼくはやはり大原の山里を背景にした、このかしぐ桜がいい。市内の染井吉野はすでに葉桜状態で、八重桜とハナミズキが満開だったが、市内から車で約40分北上した大原は、ちょうどこの染井吉野の桜が満開だった。山里側から吹き上がってくる涼風が、青々とした紅葉の葉を規則的にゆらして時間の流れをきざむ。
 その光景をぼ〜っと眺めていると、ふいに強い風が吹いて、桜の花びらがはぜるようにぱっと散った。映画のワンシーンみたいに美しかった。
 実光院とは違う意味で、この桜のヴュー・ポイントなら、ぼくは何時間でも座っていられる。実光院の夢見心地な庭とくらべて、質実剛健さがきわだっている分、その庭を通して自分と穏やかに向き合える気がする。
その桜の近くに、水琴窟(すいきんくつ)と呼ばれるものがある。これは大きなカメを地中に埋め、水滴が垂れる音を大きく反響させ、それを竹筒に耳を当てて聴く仕掛けだ。音は水滴のものだが、どこか大地が鳴る音めいて聴こえる。「水の琴」という言語感覚とともに、粋な遊び心だと思う。

 大原散策の入り口から三千院へつづく、坂道の右脇を小川が流れている。その小川を覆い隠すみたいに、左上の青々とした紅葉の葉が生い茂る。さしづめ、新緑のカーペット。これが紅に染まるのだと思うと、次はぜひ秋に行きたい。