ペルーのミニ・ガラパゴスへの旅(2)〜日系移民が眠る、カニエテの慈恩寺

rosa412005-07-01

 お賽銭を投げ入れ、お線香を一本立ててから、紫色の垂れ幕が左右シンメトリックに下がる仏壇にむかって、ぼくは静かに手を合わせた。カニエテという町にある慈恩寺でのことだ。
 パラカスへ向う旅の途中、この小さなお寺に立ち寄ったのには理由がある。同行の親戚のSさん(リマ在住の考古学者)から、この町のセロ・アスール港が、日系移民が初めてペルーに上陸した場所だと聞いたからだ。日本ではブラジルの日系移民が有名だが、南米の日系移民の入植はペルーが最初で、1899年から始まっているといわれる。
 寺には、その初入港時の佐倉丸の絵や、その凛々しい洋装姿とは不似合いな洞穴みたいな場所で、記念写真におさまる移民の人たちのモノクロ写真(下)が、実に生々しく、希望の地への憧れと現実を伝えていた。カニエテは肥沃な土地で、所々にコットンやグリーンアスパラ、アーティーチョークなどの広大な畑が広がっている。

 だが、その初上陸したといわれるセロ・アスール港周辺は、今も砂漠めいた地形に、緑が点在するだけの寂しい場所だ。南米に夢をいだいて到着した彼らが、さらに100年近く前、ここの光景にどんな感慨をおぼえたのかは想像するに余りある。あの荒涼とした場所で、洋装姿で記念写真におさまっているときの彼らの心情とは、いったい、どれほど複雑なものだったろうか。
「日系移民は政府認定の契約労働者として海外へ移民するんだけれど、どこも荒地や農村への入植だったらしい。しかも当時のペルーでは、スペイン系移民が、中国人の苦力(クーリー)を奴隷としてこき使っていたから、その後で同じような顔の日系移民がやってきて、いくら『私たちは日本政府認定の契約労働者だ』といっても、実際には小作人扱いしかされずに、ずいぶん苦労されたらしいよ。一方、19世紀初頭の日本から見れば、残念ながら移民の人たちは農家の口減らしであり、棄民政策の被害者だったんだよ」
 とSさんは話す。
 お焼香を終えて、ふと見ると、仏壇をはさみこむように、両側に位牌が四段ほどにわたって並べられている。お寺を管理している現地の女性に聞くと、どうやら「コ」の字型に仏壇を取り囲むように置かれているという。
 仏壇の裏側に回りこむと、右上写真のように、おびただしい数の位牌を目の当たりにした。その大半は、縦約20cm・横約5cm大の木札に、黒字で名前が書かれただけの位牌だった。その床下には遺骨が眠っているという。その位牌の膨大さにぼくは圧倒され、思わず唾をのんだ。
 強い日差しと喧騒があふれる戸外と比べ、静かで涼しい寺の中でもひときわ、位牌がひしめく棚周辺の空気はひんやりとしていた。そして戸外の日差しがすりガラス窓を通して、後光のように位牌の群れを照らしている。たとえばテレビの仰々しい効果音とは対極の、葉擦れの音ひとつ聴こえない静けさゆえに、むしろその光景は胸に迫ってくるものがあり、ぼくはひとつの歴史にじかに触れている気がした。
「日本移民にあてがわれた住居はサトウキビの葉に泥をこねて作られたもので、土間に敷かれた枯れ草の上で寝る生活。泥水を漉した水と粗末な食事で、気候も環境も違う土地での苛酷な労働で栄養失調者が続出した。長年奴隷を使って耕地開拓を行ってきた領主たちは時にはむちを用いて、苛酷な労働を移民たちに強い、賃金もまともに支払われることなどほとんどなかったという」(下記「カニエテ耕地物語(中))より抜粋引用。)
「そして多くの人がリマを目指して、おれ達が車で来た途を逃げ出したんだ。でも栄養状態も良くなくて、リマへと向う途中で多くの人が亡くなったらしいね。かろうじてリマにたどり着いた人たちが、まず女中や下男として富裕層の家で働き始め、そこから手先が器用な人は植木屋や洗濯屋、床屋やパン屋へと仕事を変えて、リマの日系人社会を形成していったそうだよ」(Sさん)
 その話を聞きながら、目の前の大量の位牌と、さっき見た洋装の記念写真が、ぼくの中で唐突につながった。そして彼らの子孫である女性と縁があって家庭をもった自分が、今日この寺に偶然やって来たことには何らかの意味がある。うまく言葉にできないのだけれど、稚拙とはいえども、文章を書いて米を買っている人間として、何かできることがあるにちがいないとぼくは考えていた。
ぺルー 南米初の日本人入植地「ああ、カニエテ耕地物語(上・中・下)