「刺客」という言葉の、ピンぼけカメラみたいな熱狂

 「刺客」−自民党分裂選挙報道の中で、ある政治家がいった言葉が、いつのまにかテレビや新聞で流通して、普通名詞になっている。他にも「自爆テロ解散」とか、いくつかゲンナリさせられる言葉があった。言葉の貧しさたるや、ここに極まれりだ。
 とりわけ政治家にとって、言葉は命と同じぐらい大切で重たいはずなのに、その騒々しいだけの空っぽさは、いったいなんだろう。一方、その騒動の中で、「刺客」という言葉をなんとなく聞き流してしまっている自分に気づいてゾッとする。
 本当のテロやテロリストによって命を落としている人が、英国やイラク、世界各地にいて、そういう人の家族や友人たちが、この島国の「刺客」騒動を聞いて、いったい、どう思うのだろうか。そんな想像力のブレーキがまるで働いていない。内向きで、閉じた島国の、それこそコップの中の嵐みたいに、陳腐な言葉だけがとぐろを巻いている。
 その面白おかしく色分けされた抗争劇だけがクローズアップされ、たとえば郵政民営化法案とは私たち一人一人にとって、あるいは都市生活者と地方生活者にとって、具体的にどんな長短所があるのか、といったことにはまるで焦点が当たらない。
 ぼくにとって、これ以上の反面教師はない。もちろん、対岸の火事を決め込むほどの余裕はない。いたずらに劇化せずに人の心を揺さぶるために、どう言葉をつづればいいのか。それももちろん難しいのだけれど、人として最低限のモラルは見失いたくない。
 今朝、国民新党という政党が誕生。そこのHPに掲げられた、同党の衆議院選挙の候補者公募の論文テーマのひとつが「刺客と教育」なんだって。おいおい・・・。