少し武者震いする気持ち

 取材から戻って、何かに急き立てられるみたいに、近くの遊歩道にウォーキングに出かけた。毎週1回は40分ほど歩いていて、今週はまだ歩いてなかったということもある。だが、理由はもうひとつあって、それは自分の身体とエネルギーを確かめたかったから。
 他人を描くために、根掘り葉掘りを質問ぜめにする。大学時代の友人や、昔の職場の同僚、あるいはお客さんとか。その人の周辺の人から話を聞くことで、その人物像が、まずぼくの中で立体的に立ち上がってくる。
 が、しかし、そういった作業の中で、それぞれの人が封印していた悲しみや、傷口めいたものに出くわしてしまうことがある。その悲しみや傷口にこそ、その人柄が強く匂いたつということもある。だが、それを聞くという行為は、どこかそれを背負う部分もあって、そういう取材の後は、ぼくの心は少しけだるく重くなる。
 今日も帰りの電車で、車窓の流れていく光景をぼーっと見やりながら、ある人の話と、それを話している相手の表情が、少なからずフラッシュバックして、胸がきゅんとした。普通に生きている人にも、なんと多くの喜怒哀楽があることかと改めて思う。それはまるで、荷台いっぱいの荷物をのせて、ゆっさゆっさと走るオンボロトラックみたいにぼくには思える。今、この車両で何気なく座っているあの人やこの人たちも、同じように新旧の喜怒哀楽をたくさん抱えながら生きているのだろうなぁと思う。
 そう思うと、日々無造作に生きているようにみえて、人ってすごいな。あれこれの喜怒哀楽を時に忘れ、時に乗り越え、毎朝めざめているのだから。
 そんなことをつらつら考えていると、「責任」という言葉がグンと頭に浮かんだ。やたらめったら、相手の記憶を掘り返し、悲しみや傷口にツルハシの刃先を突きたてた人間の責任ということだ。
 きちんとそれを読む人たちの、心を揺さぶる物語として仕上げることができるのか。そう自問自答すると、少し武者震いするような気持ちの高ぶりをおぼえた。すると無性に身体を動かして汗をかきたくなった。とにかく前進する自分の身体とエネルギーを確かめたかった。