意味という病

 引きこもり暦約30年の人に会ってきた。クラシック音楽を勉強し、憲法と法律を学び、最高の建築を思索する毎日で、その勉強に忙しいという。部屋にはクラシック音楽が大音量で流れていて、曲名をきくと、ショスタコービッチ晩年の作品「ビオラソナタ」だという。ハードワーカーが仕事への使命感を語るように、彼は勉強と思索への使命感を語っていた。だから私の人生には意味があると。
 ぼくは笑えなかった。かといって哀れむ気にもなれない。ぼくも彼と同様に、自分の人生に意味を見出したくて仕方がないからだ。形として残る単行本を書きたい、できればそれが多くの人に読んでもらえる一冊でありたい、そのことによって、自分の人生に生きる意味を見出したい。喉から手が飛び出るくらい、ぼくは人生の意味を求めている。
 彼とぼくとの違いは、奥さんと友人がいて、知り合いと不定期ながら仕事があること。なんとか自活できる程度のお金を稼げていることぐらい。しかし、ぼくをふくめて誰の命も、仕事も永遠ではない。明日失わない保証などない。
 自分の人生に意味を求めてしまうことの弱さ、はかなさを想った。意味のない人生を悠然と受け入れられない臆病者のぼくが、そこにいることにも気づいた。「会社のために」「子どものために」・・・、人生にいろんな意味づけをして、それぞれ人は暮らしている。
 だけど意味を求めてやまない人間の脆さは、ある意味、病(やまい)かもしれない。サンマやゴリラの命に意味はなくても、人間であるオレの命には意味がある。本当にそうか?
 2025年には、すべての都道府県で一人暮らしの割合がトップになる―厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所の推計でそう発表された。もし老いて一人になったとき、ぼくは自分の人生に、いったい、どんな意味を求めているだろうか。