神山典士『初代総料理長サリー・ワイル』〜1人のスイス人によってもたらされた、日本のフランス料理の壮大な軌跡と青春群像

初代総料理長サリー・ワイル

初代総料理長サリー・ワイル

 
 この本を読んでいて、私がグッときたのはエピローグだ。南仏のとある村にあるフランス料理界における伝説の人「エスコフィエ」の博物館を、筆者が訪れた部分。生前、ドイツ皇帝やイギリスの王子にも料理を絶賛され、世界にその料理スタイルを知られたシェフが、母国フランスでは、すっかり忘れられた存在になっている事実を筆者は目の当たりにする。
 その事実と、オランダ人画家ゴッホが自殺したパリ郊外のある村が、フランスにおけるゴッホ観光の名所としてにぎわっていた光景とを対比した後に、筆者はこう書いている。

「料理の味覚そのものは消えていく。料理人が去れば、レシピは残っても正確に味を再現することは難しい。料理に特許はないから、次世代の料理人が工夫を加えれば、それは新しい料理人のものになる。ゴッホは残りエスコフィエは消える」

 その文章が、ふいに私の胸には切なく沁(し)みた。 
 筆者も書いている通り、この本は、日本におけるフランス料理界の樹形図と、一枚の皿に消えゆく他ない料理を盛るために、その青春をささげた若き日本の料理人たちの青春群像が巧みな筆致と構成で描かれている。時間をかけて熟成された労作だ。
 関東大震災後に生まれた横浜のホテルを拠点に、くしくもフランス料理が、一人のスイス人によってわが国にもたらされた偶然を出発点に、丹念な資料収集と分析、膨大なインタヴューによって、その軌跡をさかのぼっていく。筆者の「なぜ?」という複数の問いかけが、水先案内人のようにその軌跡の謎をひとつひとつ紐といていく展開は、読者の好奇心と知的興奮を心地よくくすぐってくれる。
 しかし、その軌跡が精緻かつ壮大であればあるほど、エピローグのエスコフィエ博物館の悲哀が、物語全体を一気に吹き飛ばす。なぜなら、本の主人公サリー・ワイル自身が誰よりも、かつてそのエスコフィエに強く憧れた若き料理人だったから。ワイルや、無数の料理人たちの情熱の軌跡をも風化させずにはおかない時間の流れ、その諸行無常の一陣の風が心の中を吹きぬけたからこそ、私はグッとくる気持ちを抑えられなかった。
 そんな物語の陰影にこそ、どんなに素晴らしくとも、人の胃と記憶の中に消えていくしかない料理とその料理人たちの、その儚(はかな)き夢の刹那を感じたからだ。それは同時に、ある意味、清々しいカタルシスさえ私にもたらしてくれた。
 だが欲張りな読者としては、残念な点がふたつある。まず、主人公であるワイルの人物像が少し平板なこと。「良い人」「不運の人」といったエピソードが多くて、ワイル自身の人物像に陰影が足りない。ただ、この不満は、ワイルがすでに故人であり、その弟子たちにとっても、ワイルが謎めいた人物だったのかもしれない、という不確定要因をふくんでいる。
 また、ワイルの料理についての描写にも物足りなさを感じる。そのレシピは書かれていても、その味覚や食感、旨味がどんなものかが、文章からは匂い立ってこない。また、その一皿ごとのディテールが、当時の日本の若き料理人たちにとって、どういう衝撃を与えたのかもわからない。フランス料理界の樹形図と青春群像という枠組みが優先される余り、主役であるはずの料理人とその料理のディテールが削られていたとすれば、私はそこを読んでみたかった気がする。