『小林秀雄対話集』(講談社文芸文庫)〜「目ん玉」達人と「ボディ」への視点、そして回り道へ

小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫) 
 ときどき、回り道は必要だなぁとしみじみ思う。なかなか貧乏性がぬけずに、できるだけ短く直線距離で行こうとしがちだけど、ふいに回り道したときに、気になる店を見つけたり、気になるモノに出合ったりすると、嬉しい半面、とくにそう思う。心に余裕がないと、どうしても回り道しなくなる自分のダメさを痛感するから。
 ある人物について一本の原稿が書けずに、先週から苦しんでいる。すでに取材したノートなどを見直したり、頭の中であれこれ構成をこねくり回して、それでも、ただ時間だけがいたずらに過ぎていった。
 それが今週、衝動買いした上記の本を面白がりながら読んでいて、急に視界が開けた気がした。そう、「気がした」だけで、まだ明確なものじゃない。しかも、その原稿とはまるで無関係に思われる文章に、そのヒントを見つけた「気がした」。
 先週衝動買いした上記の本の、『誤解されっぱなしの「美」』というテーマでの小林と江藤淳の対談で、小林さんが骨董好きについて語る、こんな発言。

だいたい、ものに親しんでいると自然にそうなるのですね。たとえば瀬戸物なら瀬戸物は、目につきやすい絵付けがはじめにパッと見えるが、親しんでいると絵を抜けて先へいくのですね。
 触覚の世界へ、どうしても行くのですよ。膚や、地だな。土の味にはいって行くのです。表面的なつきあいがつまらなくなって来る。絵付けからボディにいく。いじっていると自然とそうなる。人間のつきあいでも同じ意味合いのものがあるじゃないかね。つきあいの経験が、そうさせる。焼き物を手元においているとはそういうことだ。
 手元におかず、展覧会に行って見るということでは、どうも具合が悪いのだな。年季の入れ方みたいなものだな。瀬戸物でボディを見ている人は、案外少ないのですよ。外側を見ているんです。

 ああ、おれも外側だけで原稿を器用にまとめようとしている、その人物の目に見える行動や、耳で聞いた言葉、そんな上っ面の組み合わせだけで、文章のオチをつけようとしている、だけど、それは大きな考え違いだと気づいた。
 むしろ、自分が見て感じたその人物の本質に立ち返ること。この文章でいう瀬戸物の「絵付け」ではなく「ボディ」にこそ目を凝らして考え直すこと。その触覚をこそ大切にいじり回すこと。多少時間はかかっても、それが本当だ。
 ・・・と何か自慢げにコイツ書いているなぁと思われると、えらく恥ずかしい。むしろ、まるでその反対だからね。原稿とはまるで関係ない、趣味の読書によって、それをぼくは発見した。
 一方、小林秀雄は文芸評論をひとつも書かずに、およそ二年間骨董の売り買いだけで生活していた時期がある。だが、この引用した発言だけを読んでもわかるけれど、その物事や小説が視え過ぎる強力な洞察力を、彼はただ骨董という別の世界で働かせていたにすぎない。何事も視え過ぎる「目ん玉」の達人には、そもそも回り道そのものが存在しない。