庭園植物記展(東京都庭園美術館)〜勅使河原蒼風と中川幸夫、それぞれの壊し方

rosa412005-10-28

 ぼくにとって美術館に行くのは、パソコンの「更新」ボタンを押すのとちょっと似てる。つまり、自分をいったん消すとか、リフレッシュする感じがする。んでもって、ちょっとイイ「更新」ができると気持ちがグンとよくなる。エネルギーをもらうから。
 説明書きとか読まず、ざーっと観て、気に入った絵の前で極力頭空っぽにしてねばってみる。あの感じが、「更新」ボタン状態。で、そのうち何かが「視えてくる」瞬間がくれば、まるで朝食後のすこやかな快便みたいな気分になる。ああ、すっきりしたから、今日も1日がんばろー!というやつだ。
「庭園植物記展」は、いきなり1階入口広間から、荒木経惟のモノクロの枯れ花と、ぼくの大好きな中川幸夫の真紅の「花坊主」で始まる。ここで、もうキューレターのセンスの良さを実感して期待がふくらんだ。
 展示は明治時代の植物画や写真もあるのだけれど、作品のパワーとしては、やはり草月流家元だった故・勅使河原蒼風の活けたものを故・土門拳が撮影した作品と、中川幸夫の作品写真が頭5つ分くらい図抜けている。勅使河原さんと中川さんの作品が、こんなにたくさんあるとはぼくも予想外で、とっても得した気分になった。
 どちらもただキレイなだけの「美」的感覚を、ぶち壊した前衛華道家の両雄だ。もし知らない人がいたら、来月6日(日)までなので、目黒駅近くの庭園美術館に行かれるのをおススメしたい。展示物をひと通り観てから、二階のソファで、この二人の作品をちょうど眺められる場所に座って、二人の壊し方についてボーっと考えてみた。
 華道家の家元の子どもとして生まれた勅使河原さんと、貧しい生活をやりくりしながら作品を創りつづけた中川さんは、その生い立ちも、当初の製作環境もまるで違う。
 たとえば、一本の巨木を縦割りでぶった切った勅使河原作品「虚像」は、従来の華道からすると、もちろん破格だ。それまでの「美」を巨大な斧で叩き割って見せた力感にあふれている。
 がしかし、一本の草花だけを投げ入れる(剣山で固定せず、花器にただ花を挿すこと)「茶花」や、「古事記」にインスパイアされたアニミズムを感じさせる作品群までふくめてみると、その存在感はたしかに大きくはみ出してはいるものの、やはり正統的な華道の延長線上にいた人だ。
 一方、中川は誰もいない荒野を一人行く人だ。チューリップやカーネーションの花びらをちぎって腐らせて、味噌か人間の内臓みたいに再構成してみせる。こちらは「巨大な斧」というより、「これも花なんだよぉ〜!」と耳元でわめかれながら、往復ビンタされてる感じがする。
 花びらをちぎり腐らせるという「死」と、それに新たな命を吹きこみ、グラマラスな作品に造形してみせる「生」の両方が混在し、強烈な臭いを放っている。少し観察していると、彼の作品を観る人の多くが「まぁ」とか「へぇー」と言葉を失い、時に眉をしかめていく。生と死の両方を抱えこむがゆえに、今まで見たどんな造形物にも見たことがないとびきりのエロスを、観る者すべてに突きつけてくる。あ〜〜、すっきりした。