北斎展(2)〜見えないものをこそ描こうとする「絵描きバカ一代」

 北斎といえば、「冨嶽三十六景」が有名だけれど、ぼくはもっと地味な作品に惹かれた。たとえば、題名は忘れたが、一列縦隊で飛ぶ鳥が、折からの突風にあおられ、その隊列を乱しながら飛ぶ様子を描きとめた作品。
 この絵の主眼は、鳥ではなく、彼らの隊列を乱した風に置かれている。描かずしていかに描くのか。今の僕がもっとも気にしている「余白」の使い方の、すぐれたお手本がそこにある。しかも、その鳥はじつに微妙に大きさを変えて描かれることで、距離感をも持ち込んでいる点が素晴らしい。
 また、水の中の鴨や亀を描いた作品も、水面に同心円状にひろがる波紋とからめることで、主眼は水に置かれている。そこに陰影をつけることで、形あるものではなく、むしろ形なきものをこそ描こうとする。晩年、「画狂老人卍(まんじ)」と自称した彼らしい。「空手バカ一代」と同様の代名詞だ。
 また、没年である90歳で描いた二つの作品も、いい。一枚は、色とりどりの扇子数本を描いた「扇面散図」。何の変哲もない平板な対象を、微妙に凹凸と陰影を描くことで、扇子ではなく、むしろ光の在り方を取り込もうとしたように、ぼくには見える。
 それと対をなすのが、絶筆といわれる「富士越龍図」。それまで絢爛豪華な色使いで鳴らした彼が、まるで水墨画のようなタッチで描いた一枚。富士山の頂きを越えていくかに見える黒い煙の中で身体をくねらせる一頭の白竜は、北斎その人。見えないものをこそ果敢に描こうとした彼らしい最期だ。