北野武『TAKESHIS’』〜映画で「自分」を殺さずにはいられない映画監督

 先日、生け花の「型(かた)」について書いた。昔、生け花を少しかじってみて痛感したのは、その型を壊すことの難しさだ。2本の枝とひとつの花をこの角度で入れれば、誰がやってもカッコよく見える。それが型だ。文章でいえば文法か。
 だが、しばらくやっていれば、誰でも飽きて、違う型でもっとカッコよく生けてみたくなる。だけど、それが簡単ではない。何をやっても、ついつい、誰でもカッコよく見える「型」に収斂されてしまう。ちょっと何かを変えてみても、結局は亜流にしかならないのがオチだから。踊りや絵や文章でも同じことがいえるはずだ。
 北野は今回の最新作で、その映画の「型」を抜け出すことと、「北野武」殺しを同時に企てている。一人二役の「武」を自ら演じて、売れないチンピラ俳優の「たけし」に、高名な映画監督の「武」を殺させた上に、その「たけし」をも殺してしまう。いや、殺さざるをえなかったと言った方が正確だろう。
 一市民である「ぼく」程度でも、他人のイメージする「ぼく」と、実際の「ぼく」は違う。北野ほどの著名人なら、そのギャップは異常に膨れ上がるだろう。その虚像をなぞるのが平気な人もいるが、そうでない人もいる。含羞の人、北野はあきらかに後者だ。だから「北野武」を、「世界の武」たらしめた映画によってこそ、殺さずにはいられない。
 映画自体は、いくつもの入れ子構造になっていて、映画の中に映画作りを取りこみ、「たけし」と「武」は確信犯的にオーバーラップさせ、そこに空想シーンがからむので、もう、エッシャーの騙(だま)し絵みたいな作品になっている。
 こんな映画は、日本では当然不人気で、ベネチア金獅子賞受賞というブランド目当てに一時集まった客は、誰もいなくなったのだろう。都内では今日で早々に上映打ち切りだった。 ちょっとパターンを変えた「金獅子賞級映画」ならいくつでも撮れるだろうに、それをしない。サザンオールスターズにはならない。映画で「自分」を殺さずにはいられない映画監督―そこに北野の映画に対する愛憎の深さを見た。