ビリーホリディ「レディ・イン・サテン」〜越年して聴こえて来た歌

レディ・イン・サテン+4
 年越ししたら、なぜか聴こえてくる歌というのがあるんだな。しかも新年早々に。 
去年の春ごろ、吉祥寺に出かけたとき、プラッと入ったタワレコで買った一枚。だけど帰宅して聴いてみると、その声がずいぶんと干からびていて最後まで聴けなかった。ストリングス中心の演奏で、むしろ干からびた彼女の声が全面に押し出されているのにも、正直閉口した。
 それが新年早々、ふと聴いてみると、そのスローテンポと抑制された曲調とも相まって、うんざりするような原稿の修正作業にはとてもよく合った(それはもっぱら自分の文章力の無さに起因するのだけれど)。この1週間近く頻繁に聴いていて、とてもピッタリくる。まるで聴き飽きない。それは我ながら不思議な経験だった。
 かつての軽快なスウィング感も、温かみと艶やかさを感じさせる伸び伸びしたヴォーカルも、そこにはない。むしろ、声量は乏しく、ひび割れていて、その余韻もキレの悪いオシッコのように、だらしなく聴こえる場合さえある。「衰弱」、あるいは「老い」、「苦節」といった言葉がうかぶ。
 実際に、彼女は麻薬とアルコール中毒をへて録音された一枚だ。彼女のレコーディングも、水代わりにジンのストレートを飲みながら行われたという。・・・・・・この感じをどんな言葉にすればいいのか、わからない。だけど諦めずに、言葉が生まれるまでしぶとく聴きつづけたいと思う。だって今年のテーマは元旦に書いたとおり、「わかることと苦労するということは同じ意味だから」。
ポートレイト・イン・ジャズ (新潮文庫)
 その代わり、和田誠がイラスト、村上春樹が文章を担当した『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)で、晩年のビリーホリディについて、村上さんが似たようなことを書いているのを偶然見つけた。
 声をつぶし、麻薬に体をむしばまれてからの彼女の歌は、あまりに痛々しく、重苦しく、パセティックに聴こえて、彼も遠ざけていた。それが三○代、四○代と進むに連れて、なぜか好んで聴くようになったという。

ビリー・ホリディの晩年の、ある意味では崩れた歌唱の中に、僕が聞き取ることができるようになったのはいったい何だろう?それについてずいぶん考えてみた。その中にあるいったい何が、僕をそんなに強くひきつけるようになったのだろう?
 ひょっとしてそれは『赦(ゆる)し』のようなものではあるまいか―(中略)僕が生きることをとおして、あるいは書くことをとおして、これまでにおかしてきた数多くの過ちや、これまでに傷つけてきた数多くの人々の心を、彼女がそっと静かに引き受けて、それをぜんぶひっくるめて赦してくれているような気が、ぼくにはするのだ。もういいから忘れなさいと。それは『癒やし』ではない。僕は決して癒やされたりしない。

 上手いなぁ、さすがだなぁ。でも、僕は僕なりに聴きつづけて、僕なりの言葉が生まれてくるのを待ちたいと思う。