『人間の未来へ・ダークサイドからの逃走』(水戸芸術館)〜全体像なき世の中と向き合うこと(1)

rosa412006-04-29

 美術展などを観ていて、あっ、オレだ、と思うことが時々ある。終わり間近の水戸芸術館現代美術ギャラリーに出かけて、ひさしぶりにそう思える作品と出会った。韓国人アーティスト、スゥ・ドーホー氏の『落下傘兵Ⅱ』がそれだ。
 その色とりどりのブラウスの集合体である落下傘は、テレビのブラウン管やパソコンの画面からアクセスできるヴァーチャルな情報であり、それと細い糸でつながれ、顔も手も足もなく宙ぶらりんな中身なき胴体が「オレ」だった。もちろん、勝手な思い込みだ。
 実態なき情報となんとなく繋がることで、自分の中身の空疎さから目をそらし、宙ぶらりんながらも自分を辛うじてアイデンティファイしている「オレ」。そんな構図に見えた。顔や手足がない胴体は、もはや考える真似事はできても思考はできず、感覚さえどこかマヒさせている欠落した肉体に思える。
 一方、ギャラリーガイドを見ると、こんな説明がある。

パラシュート部分は大小のシャツが組み合わさり、複数の人間存在を暗示する。見知らぬ場所へと生き残るために降下する一人の人間を多くの人が支えている。個人と複数の人間とのつながりを示す作品。

 けれど、ぼくにとってはそれは何の関係もない。
 落下傘を赤系統をメインにしたポップな彩色をほどこしたスゥ氏のセンスに、とても好感が持てた。実もフタもない現実を表現するのに、陰鬱な色彩ではなく、明るく華やかにデザインすることで、その薄っぺらさや禍々しさがより強調されると思うからだ。叫びの狂気より、嬌声や笑いの狂気の方が底が知れない。その表現方法としての軽重や明暗のバランス感覚にこそ、その人のセンスは露になる。
 連休初日に、普通列車で片道2時間超かけて出かけたが、現代美術・報道写真・そして白い壁に書かれた詩やアフォアリズムが、それぞれのアプローチで人間の「ダークサイド」と「未来」に迫っていた。「9・11」の同時テロをテ―マに2002年に企画されたものだというが、キューレターの瑞々しい感性とセンスの力量を痛感させる展覧会だった。しばらく、この展覧会について書き続ける。
(『ダークサイドからの逃走』は5月7日まで。同美術館のポッドキャスティング06年3月11日分で、同展のオリエンテーリングの様子が観られます。約1時間)