野見山朱夏(あすか)句集『朱』(ふらんす堂)〜対象の客観写生から、やがては「天空からの凝視」へと昇華された眼力の凄み

rosa412006-05-24

 その人が好きなものはその人に似ている―『デザインの輪郭』の著者で、デザイナーの深澤直人さんについて、少し前に書いた(id:rosa41:20060514)。その本の中で、深澤さんが仕事場の机にひそませていると書かれてあったのが、野見山朱夏の句集だ。そこで最寄りの図書館でさっそく借りてきた。その小さくて薄い句集を読み終えて、ぼくは冒頭のようなことを想った。二人はとても似ていると。
 病気がちで人生の3分の1を寝床で過ごし、52歳で他界した朱夏は、「客観写生」という先達の句に感銘をうけて、俳句の世界に入った。だから自ずとその作品にも修辞、いわゆるレトリックを交えない、見たままを描いた句が多い。
いちまいの皮の包める熟柿かな 
 これは朱夏の代表作ともいわれる。見たまんまを書きながら、柿を柿たらしめているものとして実ではなく「皮」に着目し、「熟柿」という生命の絶頂と同時に近づく「死」をも凝視している。見たまんまを描くことで、虚としての「死」と熟柿という「実」を、まさに虚実の皮膜を同時に見据えている。朱夏の眼力の凄みを感じさせる一句だ。
黒髪の白変しつつ野火を見る
 も同様の意味で、いい句だと思う。
 一方の、深澤さんの本の冒頭にも、同じことに言及している部分がある。

デザインの輪郭とは、まさにものの具体的な輪郭のことである。それは同時に、その周りの空気の輪郭でもあり、そのもののかたちに抜き取られた、空中に空いた穴の輪郭でもある。その輪郭を見いだすことが、デザインである

 
 朱夏はすでに他界しているから、深澤さんが朱夏に傾倒し、その傾倒ぶりがデザインへの考え方に反映されていると見るのが自然だ。
 けれど、むしろ、深澤がそれまで漠然と感じていたデザイン観を、朱夏の作品群にエッセンスとして発見して気に入った、という流れだろうとぼくは想像する。
 一方、朱夏の眼力はやがて対象の客観写生を入口に、天空からの凝視とでも呼びうるものへと変貌していく。
春落葉いづれは帰る天の奥