90歳の女性からの手紙に教わる

rosa412006-05-29

「青葉茂り心地よくそよ風が通り過ぎていく頃となりました。山々の木々もつやつやと輝いて見えます」
 そんな書き出しで始まる手紙をいただいた。差出人は京都府在住の90歳の女性、私の母親の親戚だ。開封すると便箋2枚に、改行の余白さえなくびっしりと書かれていた。
 約3年前、母方の叔母が他界した。その先祖代々の墓への納骨の際、両親とともに京都に出かけた帰りに彼女、Yさんにお目にかかった。小柄な87歳ながら顔色もよろしく、私の父と話しながらも、私たち夫婦にも細やかに心を配っていただき、その客あしらいの見事さは私に溜息をつかせるほどだった。時代のせいもあるが、とりたてて学歴があるわけではない。
 いまも労を惜しまず、家庭菜園程度に庭いじりをかかさない勤勉さが、そのエネルギーの源のように私には見えた。うちの母親がなにかにつけて、Yさんの名前を口にして、すごい人なんやと口にしていた理由が、少しわかるような気がした。
 それが私の中で確信に変わったのは、一冊目の拙著をYさんにお送りしたときだ。
 さっそく彼女からお礼の手紙が届き、ひきこもりたちの若者の話を、ついつい出不精のまま日々を過ごす自分と重ね合わせ、けっして他人事ではありませんと綴られていた。それは初対面のとき以上に、私に溜息をつかせた。87歳でなお、内省的でありつづけている彼女のやわらかな感受性に、圧倒されてしまったからだ。
 今度の手紙にも、90歳の身には似合わないかもしれず、難しいだろうと思いますが、頑張って(拙著を)読ませていただきますと書かれている。
 そういえば、昨日再会した元ニ―トの彼が、見習いたくなるような大人のモデルが今までいなさすぎた、と話していた。ぼくの友人たちにも、職場に目指すべき大人はいない、もしくは極端に少ない。
 けれど、年収の多寡や社会的肩書きなどとはまるで無縁な場所で、Yさんのようにひっそりとだが、日々の暮らしと真摯に取っ組み合っている人はきっとたくさんいる。