茂木健一郎『生きて死ぬ私』〜存在してなかった恐怖という視点

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)
 茂木さんの以下の文章にハッとした。

 考えてみれば、ビッグ・バンによる宇宙の誕生以来、百五十億年以上の長い時間の流れの間、自分という存在がなかったことは大変なことだ。その悠久の歴史の中で、私の肉体も、私の意識も、どこにも存在していなかったのだ。それは、自分の私語、自分の意識がなくなってしまうのと同じくらい恐ろしいことのはずなのだが、私たちはそのことについては別に何とも思わない。
 なぜそうなのかというと、私たちは現在自分が生きており、意識を持っているという状態を前提にしてさまざまなことを考え、そして、それ以上深く考えようとしないからだ。時間の流れが過去と未来について非対称であることについて、人類はまだ深く考えを詰めていない。

『生きて死ぬ私』の第二章「存在と時間」に出てくる文章だが、時間の流れが過去と未来にについて非対称、という視点はとても面白い。人間の死への神経質な不安が、大きな鈍感さと表裏にあること。また、今生きている時間と場所という限定された場所で、人は往々にして物事を感じ考えてしまうこと。
 たとえば、自分が存在しなかった百四十九億九千九百六十年前という時間を、一度視野に入れてみてもいい。あるいは、まるで正反対の方向から考えてみたっていい。視点や着眼点はもっと多様で多彩だったり、まるでいい加減であっても構わない。