サッカ―の醍醐味とジダン〜W杯を終えて

rosa412006-07-10

 フランス対イタリアの決勝戦の延長戦。フランスのジダンが見せた二つの行為に、サッカ―の醍醐味を見た。ひとつは、惜しくも相手GKブッフォンの好守に阻まれたが、目の覚めるようなヘディングシュート。そしてあのマテラッティの侮辱への報復としての頭突きだ。あの試合、ほとんどペナルティエリアに顔を出さなかったジダンが、いきなりゴール前に現れて見せた一瞬のプレーは、言葉では言い尽くせないほどに美しかった。勝負どころを逃さない独特の嗅覚と、野生動物が獲物を捕らえるような跳躍。
 一方、あの華麗なプレーを見せた同じ男が、相手チームの侮辱に感情を抑えきれずに犯した反則にこそ、人々がサッカ―に熱狂するもうひとつの理由がある。それぞれの国の威信をかけた、激情の衝突とでも呼んでおく。
 たとえば、ポルトガル対オランダ戦でフィーゴが見せた頭突き。あるいは、ポルトガルイングランド戦で、執拗なマークに激して、相手の股間を踏んづけて悪びれないイングランドルーニーの荒ぶり方。彼と同じクラブにもかかわらず、それを審判に抗議してレッドカードを引き出し、ニコッと微笑むポルトガルのクリスチィアーノ・ロナウド。そういったプレーは、観る者の感情をいたく刺激する。怒り、感動、嫌悪、失望、羨望といった感情は、ひとつのサッカ―ボ―ルみたいに表裏一体の関係にある。その危険性を熟知しているからこそ、FIFAはお題目のように「人種差別反対」を唱え続けなくてはいけない。まるで割れ鍋にとじ蓋をするように。
 信じられないス―パ―プレーと、国の威信を背景にした選手たちの激情の衝突が相まって、W杯はここまで人を惹きつけて止まない劇場として存在する。
 そういう競技に、場違いなヒューマニズムを持ち込んで、頭突きした選手がMVPだなんてと失望する人は、サッカ―なんて観ないほうがいい。その失望は、私の大好きだったモーツァルトが、実際にはあんな素っ頓狂な声で笑う、ただの女好きだったなんてと失望を隠せないファンの「場違いさ」と同じだから。そんな人たちは生涯、芸術もサッカ―も理解できない。
 ブラジルのロビーニョの羨望をまるで父親のように受けとめたジダンが、マテラッティの家族への侮蔑?には我を忘れて頭突きを食らわす。そこに、他人が手前勝手に捏造しかけた「美しい伝説」からはみ出さずにはいられない等身大のジダンがいて、サッカ―が永遠に人々を魅了してやまない理由がある。
 だからジダンの退場を誘ったマテラッティの侮辱発言さえも、必要である。