『何必館(かひつかん)・京都現代美術館』〜京都文化の粋と空間の交錯

rosa412006-08-06

 友人と京都・南座前で待ち合わせて、ようやく訪れた。以前から、一度行ってみたいと思っていた個人所蔵品による『何必館』。ここは、日本画なら小林小径、洋画なら須田国太郎やパウル・クレー。書なら良寛。写真はブレッソンやドアノー、木村伊兵衛田原桂一まである。じつに古今東西、縦横無尽だ。
 今はちょうど館蔵品から、日本画村上華岳北大路魯山人の陶器、洋画の山口薫展をフロアごとに展示していた。「線(描線のこと)は『前世からの因縁』」という華岳の言葉。そして山の稜線と枯れ枝だけの風景画がいい。
山口薫の絶筆「おぼろ月に輪舞する子供達」は、彼の他作品とくらべても、妙に明るくてポップで心惹かれる。でもマチスに、似たような作品がなかったかな。魯山人は大鉢がグラマラスでポップで、穴がぼこぼこ空いた敷板との落差あるマッチングが面白い。(つづく)
 最上階5階に上がると、予想外にも香月泰男が数点展示されていた。ぼくも彼の画集を2冊もっている。黒い噴煙を巻きあげる桜島をも、母親の広い胸元のように包み込む乳白色の高い空にグッとくる「桜島」。余白をもって語らせる構成がいい。
 座椅子部分が広いソファに半ば寝そべるように座り、同じ階にある青々とした紅葉の木をながめやる。
 そこは楕円状に天井が抜けていて、当日36度の、うだるような京都の夏の青空がのぞいている。ぼくは魯山人の写真集などペラペラめくりながら、ふと気がついた。この紅葉は、この街に無数ある禅寺の枯山水庭園と同じだった。
 長寿を願う「鶴亀」や、蓬莱山をシンボルとする「彼岸」思想など、人間の祈りをデザインした庭園の多くは、京都のその日の空や雲と交錯するようにして、そこにある。その昔、ぼくが大徳寺の庭園で不覚にも泣いたのは、その異なる時空間が交錯する庭と、そのときに痛感した自分の稚拙さとが一瞬混ざり合ってしまったから。
 この美術館が束ねる、それぞれの館蔵品が抱える時間と想念と、この日の青空をいだく一本の紅葉はあきらかに交錯している。この木は雨をうけ、紅(くれない)にそまり、風にゆれて、苔むした土の上に葉をおとしながらいきつづける。それは地球の自転にもにた、えんえんたる時間軸として、多くの館蔵品と、それを観に訪れる人たちをつなぎ、だきしめ、たばねつづける。これこそが京都の粋で、数寄だ。美術館のパンフレットにはこうかかれている。

人は定説にしばられる。
学問でも、芸術でも人は定説にしばられ
自由を失ってしまう。
定説を「何(なん)ぞ 必ずしも」と疑う
自由な精神を持ちつづけたいという願いから
「何必(かひつ)館」と名づけました。

 今度は秋の雨に打たれる紅葉をボーッと観にきたい。