沢木耕太郎『凍』〜そのシンプルさゆえに、むしろ野太い生命力

凍 
 以前、TBS『情熱大陸』で観た山野井泰史・妙子夫妻のクライマー人生をたどった一冊。この本で僕が臍(へそ)だと思う部分がある。
 8000m近いヒマラヤの高峰ギャチュンカンでの下山時。ハーケンを岩に打ち込み、そこに長さ50mのロープを通して結び、そのロープを使って25m下降する。後はその都度ハーケンを打ち込みながら、その作業を反復しながら下山していく作戦を立てた。同じ1本のロープに、一定の間隔をおいて、泰史と妙子の二人がその身体を結び付けている。その途中で突然の雪崩れに遭い、妻の妙子が流されて、その姿が見えない状態におかれたときの泰史のじつに冷静な述懐部分。少し長いが引用する。

 もしかしたら、妙子は死んでしまったかもしれない。自分はスリングとロープに二方から引っ張られ身動きが取れないが、もし死んだのならロープを切らなくてはならない。しかし、手元から切るわけにはいかない。手元から切るということは妙子の死体を氷河に落すということであると同時に、ロープを捨てるということも意味する。ここからはロープなしで降りられない。
 山野井の頭の中ではさまざまな考えが渦を巻いていた。
 万一、妙子が死んでいても、ロープは残さなくてはいけない。しかしロープを外して降りていき、妙子の死体のそばで切るということはできない。この状態でロープをはずすなどということは不可能だからだ。(中略)それから妙子のところまで降りていき、死んでいたら、身体に近いところからロープを切断する。妙子の死体は氷河に落ちて行くだろうが、ロープは残る。その切断されたロープを自分のハーネスにつけ、もういちど上の支点まで登り返す。それからロープを二本にして懸垂下降をする・・・・・・。
 頭の中でシュミレーションをし、この危機的な状況においても最悪のケースに何とか対応できるということを確認してから、さらにロープを引きつづけた。

 妻の死体より下山するためのロープの方が大切。それは山野井が死なずに下山するためだ。生きるか死ぬかという選択肢しかない状況で、なおかつ彼自身もかなり体力を奪われている以上、それはじつに論理的なシュミレーション。そこに優れたクライマーの本質、この本が描きたい臍(へそ)がある。それは夫と妻の立場がまるで逆でも、いささかも揺らがない。
 極限の地へ彼らを駆り立てるのは、高い山に登りたいという極めてシンプルな思いと、生か死かない場所で生き残るために全力を尽くさなくてはいけない状況の、ヒリヒリするような麻薬にも似た緊張感にちがいない。日常ではけっして味わえない種類のものだ。人生に登山以外の選択肢しか持たず、そのことにわずかな疑いさえ持たない。そのために、それ以外のあらゆる時間と生活があるという生き方の野太さを、グイッと目の前に突きつけられる。