百済観音という頑なな優美さ

rosa412006-09-04

 聖徳太子がかなりの審美眼の持ち主だったのか、法隆寺の仏像はじつに多彩。中国テイストもあれば、インドテイストなものも散見される。で、いくつもの仏像を見た後で、百済観音とご対面になるのだが、これがマイッた。(この写真ではたぶんそれは伝わらないだろうけれど、一応ご参考までに)
 そのなで肩の八頭身は「優美」という言葉がピタッとはまる。いわば超人的ファッションモデル体形で、それまでの仏像と比べるともはや異星人級。しかも、同行の友人が「もっときれいにしたらいいのに」というほど、顔から胸にかけて、この木製仏像は劣化している。
 だが外見の優美さと、その顔や胸元の朽ち果てぶりのバランスが絶妙で、ぼくはなおさら釘付けになった。
 これをそのまま閲覧させている法隆寺側の真意まで邪推したくなる。どんなに美しいものでも朽ち果てていくという無常観なのか、あるいは朽ちてなお美しいものがあるという示唆なのか。それに作者不詳のこの仏像がたどってきた道のりさえ想像してみたくなる。よくよく見つめていると、単に優美だけでは片付けられない、強さや頑なささえも感じられる。
『見仏記』(角川文庫)における、いとうさんの言及を引用する。

 つまり、百済観音は見る者の感覚のバランスを崩すのだ、と思う。その見る者の感覚を危うくする形が、奇妙な作用を生み、解釈を要求し続けたのである。それが千三百数十年を経て今も残っているという奇跡にこそ我々は驚くべきなのだ、と思う。長く生き続けてきたその甘美な不安に。
 とかなんとか言いながら、百済観音の美の伝説に、結局はめられている私だが、みうらさんは自由だ。少しの間、仰ぎ見てこう言う。
「プロポーションが人間離れしてるから、かっこいいんだよね。岡本夏生でしょう?」

 いとうさんの言葉にフンフンとうなづきかけて、みうらさんの「岡本夏生」に虚をつかれる。これが『見仏記』の醍醐味であり、このコンビの妙味でもある。