川端康成『虹いくたび』〜シンプルなものこそがたたえる妖気

 何度読んでも同じように引き込まれてしまう小説がある。
 川端康成のこの作品も、ぼくにとってはまちがいなくその一編。先の京都・名古屋出張の際、なんとなく持ち出したのだけれど、車中で読みながら首根っこをぐいぐいと引っ張られた。そう本好きにとっては、その「ぐいぐい」がじつに堪らない。
 建築家の水原には、その放蕩ゆえに、それぞれ母の違う三人の娘がいる。
 正式に結婚して育てたのは二女の麻子だけ。長女の百子(ももこ)は、その前に付き合った女との間にできた子で、母の自殺を知り、まだ麻子が幼い頃に水原家に引き取られた。もう一人は、麻子の母が生きていた頃、京都の芸者に生ませた娘の若子。彼女は生みの母が京都で育てていて、姉妹には会ったこともない。

 しかし、麻子が家にいないので、百子は父の身のまわりの世話や台所の指図に追われていた。
「麻子がいないと、お父さまはなんだかしょんぼりしてらっしゃるわ。それを見ているのが、私はいやだわ。いつもお父さまを、麻子にまかせていたから、私にはわからないのよ。」
 と百子は首を振って、
「おつゆ一つだって、麻子と同じ味に出来ないもの。そんなことが気になるのは、いやだわ。私はお父さまと二人で暮らすのに、堪(た)えられないわね。卑屈になっちゃうわ。」
 そう言いながら、百子の胸の底には、怪しい炎がゆらめいた。
 継母(麻子の母)が生きていたあいだ、百子は父には近づくまい、親しむまいと、ひそかに自分をおさえて来たようだ。
 その習わしが、今につづいている。
 麻子の好きだった虹の絵が、麻子の病室にあることにさえ、父が百子にかくして持って来たのではないかという疑いが、ふと心をかすめて、百子は自分がなさけないのだった。
 麻子が見ていなければ、ぎりぎりと歯ぎしりがしたい。

 川端が繰り出す言葉は、三島のように観念的でも、過度に抒情的でもない。
 引用した文中にある「堪えられないわね」「ぎりぎりと歯ぎしりがしたい」といった、なにげない言葉を使いながら、そのくせ、人間のさまざまな情緒を、顕微鏡でも覗き見るような手つきでじつに精緻に絡み合わせて、小説へと昇華させてしまう。ひらがなの使い方がうまい。この作品では、長女・百子というキャラクターに狂気と妖気を重ねることで、小説全体に適度な歪みを与えて、読み手を引っ張っていく。小憎らしいほどだ。 
 川端の小説をひさしぶりに堪能し終えたとき、ふいに思い出されたことがある。
 以前、佐賀県の有田焼の里を訪ねた際、源右衛門と柿右衛門、それぞれの工房を覗いてみた。初めてじかに見た柿右衛門は、あまりに大人びていて、三十代半ばの自分にはまるで不似合いだと思い、ぼくらは源右衛門の夫婦茶碗を二つ買い求めた。とりわけ高価な柿右衛門の皿や花器には、乳白色の地に、赤でも橙色でもない独特の朱色ひとつで、さまざまなものが描かれていた。とてもシンプルなくせに、何かぐいぐいと引き込まれそうな、得体の知れない妖しさをたたえていた。その朱色の線が、蛇の紅い舌のように今にもちろちろと動きだしそうな気がした。そして川端の小説にもとても似ていた。
 しかし、両者の作品がもつ「行間」にどんなものが共有されているのかは、相変わらずわからない。