重森三玲の庭〜「石に乞(こ)う」(2)

rosa412006-11-26

 昨日書いた展覧会に興味深い資料が展示されていた。
 1939(昭和14)年、三玲43歳のときの本格デビュー作、京都・東福寺方丈庭園を作る際のエピソ―ド。三玲の人となりがうかがえるし、作庭を依頼した和尚の禅問答も笑える。

「・・・少々の礼金でやったやったといわれることこそ、片腹いたいのであるから、無料奉仕の方がよい。従って、この場所を保存されることで、むしろ永代に無料で私が借用するのと同様だから、これほど大きな収穫はないと話した。
 ところが善慧院以三和尚は、さすがの禅者であり、寺というものは金のないときが一番の富者であるという。金がないから、何一つできなかったことによってここに新しい庭が誕生することになる(後略)」

 けっして裕福ではなかったはずなのに、この豪気と逆転の発想がチャーミング。いたずらな功名心や銭勘定とは無縁なところは、この人、根っからの芸術家なんだな。
 三玲の言葉の中で、今の自分が最も引っかかったのが、「石に乞う」という視点。
 庭にひとつの石をおきさえすれば、その石がおのずと次の石を求める。つまり、最初の石を置くことで、次の石の位置とカタチはおのずと定まるということ。だから石に乞う、訊くのだと彼は言う。
 じつは、先週放送のNHK『プロフェッショナル』で将棋の羽生善治さんが、同じことを「他力」という言葉で語っていた。それは要約すると、

 何らかの手を打つと、後は相手に委ねるしかない。相手が次に打ってくる手に対して、初めて考えはじめる部分が大きいですから。(自分からひとつの戦略を仕掛けていくというより)相手の手に呼応する形ではじめて何かを決めていけるんです。将棋は他力なんです。

 この発言の直後、司会の茂木健一郎さんが「武術と同じですね」と言うと、「ええ、まったくその通りだと思いますね」と羽生さんは間髪いれずに答えていた。
 コミュニケ―ションであると同時にクリエイティビティの本質について、くしくも二人は語っている。やせっぽちな自我をなかなか消せないぼくの文章にもっとも欠落しているものだ。